「……?」
リディウスは小さなテントの中で目を醒ました。何か聞こえてきたような気がしたのだが、横に居るジズはすやすやと眠っている。
気のせいか、と再び目を閉じたが、やはり違う。何処からか、微かに。それは確かに聞こえてくる。
(何だろう……)
何かあれば、見張りをしているシンが知らせてくれるはずだが。どうしたというのだろう?
彼は身に付けていたやや裾も袖も余る砂族の勇敢な少年の服を正すと、毛布を体に巻きつけて静かにテントを出た。一面の蒼が彼を出迎える。死と無慈悲をその内に秘める砂の海は、今は穏やかに静かに彼ら人間を包む。
あれ、と彼は辺りを見渡す。居るはずの、シンの姿がない。ということは、聞こえてくる何かは彼女が発しているのだろうか。
(こっちかな?)
微かに流れてくるのは、どうやら旋律を伴った音。シンが楽器を弾いているのだろうか。その美しい音色に惹き付けられるように彼は歩き始めた。
(あ……歌……?)
そしてほんの数歩で、その音は詞も伴うものであることが分かった。旋律も歌詞も聞き取れるほどに近づくと、思わず足が止まる。
高く、時に低く、曇りなく透明な、しかし危うげもなくしっかりと通る美しい、美しい声。聴いていると何故だか涙が出てくる。聴きなれないが寂しさを感じさせる旋律も相まって、視界が滲むのを止められない。
目の辺りを擦って、彼はまた歩き始めた。歌い手を邪魔しないように気をつけながら、ゆっくりと静かに。やがて、歌い手の姿が見えた。
(わぁ……!)
白い砂が蒼い月の光を浴びて輝き、その上に立つ人影を浮かび上がらせる。砂と同じく蒼く染まった歌い手の纏う布が、涼やかに風を受けて、はためく。真っ直ぐに凛と立つ後姿は、砂漠に咲いた月光花のよう。星も霞むほどに煌く銀の髪は、微かに揺れる度に同じ色の雫を零すのではないだろうか、と思う。
自分でも陳腐な言葉だとは思うが、リディウスはその光景を「幻想的」、としか表せなかった。別世界に迷い込んだ、幸運な旅人にでもなった気分だ。目にする光景と耳にする歌が、彼を完全に呑みこんでいた。
身じろぎもできずに見つめていると、歌が終わった。
「……すまん。起こしてしまったな」
歌い手がこちらを振り向きもせずに放った言葉に、リディウスはやっと我に返る。
「い、いいえ!起きてましたから」
「……ふ」
少年の幼い優しさに微笑みながら、シンは振り返った。蒼く染められた世界の中で、一際眩しく銀の髪が存在を主張するが、その持ち主の持つ「美」を翳らせることはなく、更に引き立てる。
(うわ……)
綺麗だ。本当に、綺麗だ。
生まれて初めて、生家のステンドグラスが朝陽を浴びて輝くのを見たとき。その時に感じたような、感動に満ちた驚き。
「さあ、戻るぞ。明日に備えて、寝ておけ」
それに包まれている少年の元へ、ステンドグラスに描かれていた天使ではなく、白い反逆者が歩み寄った。リディウスの薄い肩を叩いて、先に立って歩き出す。
「は、はい!」
少年は急いで追いかけ、何時もは背中を見て歩くのだが、今回は彼女の隣に並んだ。
「あの、シンさん……」
「なんだ?」
もじもじと、照れくさそうにしながら、彼は上目遣いに頭一つ高い位置にある蒼の双眸を窺う。
「また、歌を聴かせてください」
「え」
純粋に驚いて彼女は彼を見返すと、
「あ、その、嫌じゃなかったら、でいいですから……」
語尾が消え入りそうになりながら、少年は顔を紅くして俯いた。何時もの隙のない表情でない彼女は新鮮で。年上相手に生意気かもしれないが、「可愛い」と思ってしまって、照れくさかったのだ。
そんなことは知らず、シンはまた真面目に彼の言葉を反芻して応える。
「嫌、ではない。……嬉しい」
―ねえさま、おうた、うたって
「我でよければ、何時でも、唄おう」
また、誰かに求められるとは思わなかった。
「本当ですか!?うわあ、ありがとうございます!!」
喜ぶ少年の横で、彼女は微かに、笑った。見る者によっては泣き顔とも見える微笑だった。
何時からか起きていた男に迎えられ、二人はテントで睡眠を取った。次の日の朝は相変わらず暑かったが、二人の顔は清々しい。
「そういえば」
テントを畳んで背負う男が、ひょいとシンの顔を覗き込んだ。
「昨日はうなされてなかったよ、君」
それどころか微笑んでいた、というのは秘密。あの美しい微笑は自分の胸に独り占めにしておきたい。見惚れていて見張りを放棄していたのはもっと秘密。
「そう、か」
シンはどこか納得したように頷いた。昨夜は良い夢を見ていた。家族に囲まれて唄う夢だ。家族が出てくる夢で悪夢でないのは久しぶりだった。
「あ、そうそう!リディ、君の故郷ってどんな所?名物とかあるの?ご家族は?」
ころころと話題が変わる男だ。今度はリディウスを質問攻めにする。そういえば「仲良くなりそうな人たちのことはよく覚えておきたい」、というようなことを以前言っていた。
「あの。ジズさんは、何処から?お歳は?」
ジズの質問に律儀に応えてから、少年は訊き返す。
「ん?東の方から流れてきたんだ。遠いぞ〜?」
それだけ言って笑う。何時もこうだ。
「お前は必要以上に喋るくせに、己のこととなると滅多に口を開かぬのだな」
「……」
突如割り込んだシンの声に、一瞬驚いてジズは止まった。だが、
「ミステリアスな男って、素敵でしょ?」
またはぐらかす。もっとも、シンもそれ以上追及することはしない。
「言っていろ」
「うん!」
別に許可を与えた訳ではないのだが、男は嬉しそうにまた喋り始める。
ジズの声を伴奏に三人は暫く進んでいたが、
「あ、そうそう!」
一体どれだけ喋りたいことがあるのか分からないが、またジズはシンに笑顔と話の矛先を向ける。
「あのね、シン」
「……なんだ」
「俺の一族の古〜い言葉ではね」
彼はどことなく悪戯好きな子供のような目をする。
「『シン』っていうのは、『信じる心』を表すんだよ」
「……」
黙る彼女は無表情に見えるが、暫く付き合っていると色々と考えているのが分かる。ジズはそれを誇らしく感じながら、楽しそうに言葉を続ける。
「俺はね、『信念』を背負う人はキライじゃないよ」
君は『罪』だと言うけれど。
「……そうか」
シンは苦笑交じりに微笑んだ。
「お前に好かれても別に嬉しくはないが」
ジズは一瞬捨てられた仔犬のような目をしたが、
「……『信』というのは、悪くないな」
続けられたその言葉に、嬉しそうに笑った。
まだ、渇きは癒えた訳ではない。
娘は己の心を見つめる。
恐らく、一生癒えはしまい。
だが……
渇いた心の何処かで、透明な水が湧き始めていた。
そして男は。
笑いながら、感じていた。
共に歩く娘の微笑と少年の笑顔を見て、日に日に強く。
これは
渇きの予感。
砂漠の海はそれぞれの心を呑み込みもせず救いもせず、ただそこに拡がっていた。
〜第二章・完〜