真っ黒の空に、白く小さな星の瞬き。それを真っ黒の森から見上げる白い服の娘。赤く燃える火の側で、シンは天を睨む。明日は晴れそうだが、その分日差しも厳しくなりそうだ。
 その横で、リディウスは横になって目を瞑っている。が、眠れない。頭も身体も落ち着かない。毛布に包まってはいるが、固い地面の上に直接寝るなんて、初めての経験だ。向かい側のジズはさっさと寝付いてしまったようで、安らかな寝息が聞こえてくる。
 (なんて気楽な人なんだろう)
 追われているのに。緊張感が無さ過ぎるし、明るすぎはしないか。その明るさに救われているのは事実だが、そのノリと気分の固まりのような言動のせいで、巻き込まれたのも事実。
 (……ちょっと、腹がたってきた)
 当然といえば当然の感情を、今頃になってやっと思い出す。一旦は抑えたが、自分は被害者だ。もっと怒ってもよいのではないだろうか。そう思うと、怒りが込み上げてきた。
 理不尽だ。
 あまりにも理不尽だ!
 大声で叫んでしまいたい気分だ。
 自分は何も悪いことはしていない。むしろ、困っている(と思われた)人たちを助けようとしただけだ。もしこれが神の与えたもうた試練だとすれば、あまりにも酷過ぎる。その神に最も近いとされる法王に、追われるなんて。……法王を、信じきれなくなるなんて。
 自分は真面目に生きてきた。常に己の行いを反省し、正しい行いを心掛けていた。
 自分は必死に努力してきた。毎日学問に励んでいた。まだまだ、学びたいことがあった。
 自分は、
 自分は……
 なんと、惨めなのだろう。
 「……っ」
 今度は、また涙が出てきた。自分が可哀想で泣くなんて、我ながら情けない。感傷に浸るような心根では、神の教えを伝え、導き、誰かを救うなんてできはしまい。
 これは、そんな未熟さに対する罰なのだろうか?
 だが、涙を抑えることはできなかった。
 「〜〜〜っ!」
 毛布を噛み、声を必死に殺す。
 絶望が、押し寄せてきた。
 もう、いっそのこと……
 恐ろしい考えすら頭によぎる。
 その震える肩に、何かが触れた。
 「おい」
 シンだ。リディウスは気付かれたことが恥ずかしくて、ぎゅっと丸まる。
 「なん、でも、ないですから……っ!」
 自分でも全然隠し切れていないと分かる、涙声。放って置いてもらいたかった。だがシンは、二、三回肩を叩く。ぎこちない叩き方だが、なだめているつもりだった。
 「……恨みたければ、恨め。泣きたければ、泣け。……その方が、すっきりする」
 経験者はそれだけ言って、肩から手を離した。
 「……!」
 リディウスの中で、何かが、外れた。
 「う……ふええ……っ!!」
 大声で、泣く。ジズが起きるかも、とか、恥ずかしい、という気持ちは消えた。ただ、泣く。幼い子供のように泣きじゃくる。こんなに一心不乱に泣いたのは、いつ振りだろう。

 やがて泣き疲れた少年が眠りつくまで、娘と、目を醒ましていた男はじっと待っていた。
 娘は、一人の少年の人生に干渉してしまったことを深く肝に銘じた。自分の進む道は、誰かを不幸にする。自分すらも。だが、それでも歩み続ける。誰かを不幸にするならば、その咎さえ背負おう。それがいかに苦しいことでも。この道を進むと決めたあの時から、自ら「罪」を背負ったのだから。正しいとは思わないが、それは信念だった。
 男は、少年が望んで旅の友になったのではないことを思い出した。一度ごめんね、と反省して謝ったことで、己の中ではすっかり罪悪感はなくなっていたが、それで「ああそうですか」と納得してくれるほど、人の心は単純ではない。まいったな、と男は思う。泣かせちゃった。俺の所為だよなあ。……よし、せめてちゃんと守ってあげよう。これでおあいこだ。
 それぞれ前向きといえなくもない決意を固め、この夜は少年を起こさずに二人で見張りを受け持った。
 せめて、一夜の安息を。


 泣き声が聞こえる。
 振り返ると、小さな子供が服の裾を引きずりながら駆け寄ってきていた。
 ―ねえさま!
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、可愛い弟は舌足らずに彼女を呼ぶ。
 ―どうした、……
 苦笑しながら、娘は弟の名を呼び、その身体を抱え上げた。
 ―また、からかわれたのか?
 ―ううん。違うの
 しゃくりあげながら幼子は応える。
 ―じゃあ、どうした?
 ―じょうずにうたえないの
 ―どの歌を?
 ―ねえさまのうた
 娘と同じ名を持つ歌のことだ。娘はまた苦笑した。
 ―あれは、お前にはまだ難しい。もう少し大きくなれば、唄えるようになる
 ―でも、今うたいたいの
 ―何故?
 ―ねえさまといっしょに、うたいたいから
 娘は微笑むと、弟を抱く腕にそっと力を込めた。
 ―ありがとう、……。そうだな、共に唄えれば良いな
 そして弟の小さな身体を高く持ち上げると、今度は肩車をしてやる。
 ―では、練習しようか。よぅく聴いておけ。お手本だ
 娘は軽く息を吸い込むと、換わりに透き通った旋律を紡ぎだした。
 娘の歌が始まったことに気付き、周りの者も皆手を止め、耳を傾ける。
 低く高い、男とも女ともつかぬ澄んだ声が、遥か遠くまで渡り行く。
 一番の観客席で、幼子はさっきまで涙を溜めていた目を輝かせて聴き入っている。
 伸びやかに、時に軽やかに、そして重厚に響く音。ゆったりとした複雑な高低差をもつ旋律が、清らかに奏でられる。
 歌を愛し、そして歌を愛するための才に恵まれた一族の中でも、娘は格別だった。

 やがて高音の繊細な余韻を残して娘の歌は終わった。
 うっとりと聴き入っていた聴衆はしばしその余韻に浸り、惜しみない拍手を捧げた。
 娘は少し頬を赤らめ、それを隠すように一礼すると弟の身体を肩から持ち上げる。
 ―さあ、……。練習を始めるか?
 そしてその小さな身体を腕に戻そうとしたとき、
 娘の指が、異様な感触と共に弟の身体に喰いこんだ。
 ―!?
 驚いて急いで腕に引き戻すと
 ―な……!?
 それは、弟ではなかった。
 弟の形をした、炭人形。
 ぼろぼろと、指の間から崩れていく……
 ―う……あ……!!


 「……っ!!」
 「わっ!?」
 がつんっ!!
 と、大きな音がして
 「〜〜〜!!!」
 「……痛い……」
 ジズは顔面を押さえて声にならない悲鳴を上げ、シンは額を押さえて呟いた。
 ここは枯れた森の中。どんよりと薄暗いが、やせ細った枝の合間から朝の光が射している。
 (夢、か……)
 シンは軽く安堵の息を吐いた。嫌な汗をかいていた。頭を軽く振る。……しかし額が痛むのは何故だ?
 「おは、よ」
 男が鼻を押さえながらこちらに微笑みかけるが、半分泣いている。涙目だ。
 「どうした?」
 「どうした、って……君こそ」
 ジズは何度か瞬きをして滲んだ視界をすっきりさせると、己の鼻とシンの額を交互に指差した。
 「急に飛び起きるから、ぶつかったじゃないか。いったぁ〜」
 「それはすまなかったな」
 シンは素直に謝った後、はたと気付いた。
 「……おい。何故ぶつかるような位置にいたのだ……?」
 寝顔を覗き込まれていたということだろうか。それも、至近距離で。
 「え、あ〜……それは、うなされ始めたから、心配になって」
 娘が静かに殺気立ったのを悟ったのか、何気なく半歩身体を引いて、それでも笑顔で応える。笑ってさえいればなんとかなると無意識に思っている。
 「我が……また?」
 「そう。また」
 うなされ始める前から、「うん、やっぱ綺麗」と納得しながら楽しく寝顔を拝見していたことは黙っておいた。
 (いいよね、減るもんじゃないし。目の保養はしなきゃ。情操にもイイんだよ。ほら、情緒とかって、人間として必要だろ?)
 綺麗なモノを鑑賞するのは趣味なのだ。仕方ないことなのだ。人間として必要な常識その他は欠如しているような気がしないでもないが、彼は自分なりに納得した。
 「それは、すまなかった」
 もう一度素直に謝って、シンはリディウスの方へ目を遣る。が、そこに少年の姿はない。
 「ああ、顔、洗ってくるってさ」
 彼女の視線に気が付いて、彼は解答を与えた。少年の真っ赤になった目を思い出し、顔をしかめる。子供を泣かせて、イイ気分はしない。
 「そうか。我も行くかな」
 同じ気持ちを抱きつつ、滑らかな動作で立ち上がると、娘は軽く伸びをする。軽く腕を動かし、体調は万全であることを確認する。疲れては、いない。だが、背中の嫌な汗が気になった。悪夢で飛び起きるなど、久々だった。
 (悪夢といえど、ただの夢だ。気にはすまい……)
 夢の中で味わったリアルな感触を思い出したが、それを握りつぶすようにぐっと拳を握る。この手から、この腕から、崩れ落ちていったものはもう取り戻せない。迷うな。逃げるな。
 己の拳をじっと見つめるシンの様子を、ジズは静かに見守る。
 (そんなに気合入れて洗うつもりなのかな、顔)
 この男、時々鈍い。

 やがて三人とも身支度と腹ごしらえを済ませ、森の中を進み始めた。リディウスは昨夜のことを気にしてか、少し恥ずかしそうにしていたが、何かがふっきれたのだろう。穏やかな表情だ。ジズの他愛もない話に自然な笑顔も見せている。
 (泣いたおかげで、本当にすっきりしちゃった)
 昨日より軽くなった足取りで歩きながら、リディウスは神学校で学んだ薬学の知識を活かし、使えそうな薬草なども採取する。気分が違うだけで、そんなところにまで目が向くようになった。昨夜のシンの不器用な優しさに感謝するとともに、その不器用さがなんだかあまりにも「彼」らしくて、思わず微笑みそうになる。あんなに怖いと思っていたのに。
 (どうしようもないことは、確かにあるのかもしれない)
 シンが言っていた台詞を思い出す。
 (そして、そう。それを嘆いたところで、本当にどうしようもないのかもしれませんね)
 だから、シンは天に逆らった。神を信じることをやめた。
 だがリディウスは、
 (でも大丈夫。きっと、父なる神は迷える者に手を差し伸べてくれる。正しきものを救ってくれる)
 信じることを、やめられない。それは強さでもあり、弱さでもある。
 (神は、ちゃんとすべてを見ている)
 そう、だから。
 (無実が証明されるまで、しっかりしなくちゃ。……生きて、頑張らなきゃ)
 自分を憐れむのは、もうやめた。信じるものがあれば、人は、自分は、立っていられる。絶望を、希望に変えることもできる。それが、今のリディウスを支える彼の中の真理。
 「あ、ほら、森を抜けるよ」
 横を歩く男が前方を指差した。どんよりとした森の向こうが、仄かに明るく光っているのが分かる。
 「はい!」
 明るく返事をして、少年は踏み出した。光の射す方へ。

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