「さぁて、と……どうするかな?」
これ以上つらくならないためにつらい別れを済ませた男は、ぐるりと周囲を見渡した。
(……あれ。もしかしてヤバくない?)
一般的にいう絶望的な場面でも、まだ希望を拾える能力と自信はあるのだが、その彼をしても辺りは「ヤバ」かった。
(ま、いっか。ここで死ぬのも、悪くないかも)
ついさっき何処かで聞いたようなことを思って、ジズは、うん、と伸びをした。
(今ならもう、思い残すことは……)
子供たちの寂しげな瞳が思い浮かんだが、無理やり頭から追い出す。
(仕方ないよね、この火事だもん。誰だって死んじゃうよね)
自分に言い訳をして、男は歩く。なるべく火の粉は避ける。死ぬにせようっかり生き残るにせよ、火傷は痛いから嫌いだ。
そんな彼の踏みしめた床が、ぎしりと音を立てた。今までとは違う感触。
「ん?」
違和感を感じた瞬間に、床はそのまま、抜けた。
「あらら」
下からの風を受け、ジズは垂直に落ちていく。
やだなあ、この程度の高さじゃ、一思いには死ねないよなあ。火傷か窒息か……痛いのも苦しいのも嫌いなんだけど。
そんなことを一瞬の内に考えていた彼の落下は、一瞬で中断されてしまった。
何だよもう。
鬱陶しげに、自分の腕を掴んでいる者を見遣る。
「っ……!重いな、お前」
床の割れ目から身を乗り出して、ジズの腕を掴んでいるのは彼のはとこ。長い黒髪がジズの顔をくすぐる。
「やあ、びっくりだな」
そういえばさっきもこんな状況だったなあ。立場は逆だったけど、とのんびり思うジズを引っ張り上げるべく、シスイは腕に力を込める。が、相手に協力する素振りはない。
「阿呆。さっさと上ってこい」
「……ヤだ」
「駄々をこねるな」
無性に腹が立つ。自分の先程の行動は棚に上げて、シスイは鋭く冷ややかな眼差しをジズに向ける。
「ここで死ぬ気か?」
「それも悪かないなあ、と思った。思ってるトコ」
麗人は冷たく笑う。
「無様だな」
「……酷いな」
笑いながらシスイは、むっと眉をひそめたジズを有無を言わさず引っ張り上げる。勢いがつきすぎて、あと苛立ちも混ざって、半分放り投げる形になった。鈍い音がしたが聞かなかったことにする。
「あいたた……あ〜あ。やっぱり助かっちゃった」
おどけた風に肩をすくめてみせるジズに、シスイはこの世のものとは思えない程の美しい微笑を向けた。まるで天女のようなその微笑を湛えたまま、
がつっ!!
と激しく鈍い音を響かせて、思い切りジズを殴った。折角立ち上がった男は、また床に倒れこむ。
「お前は、身勝手過ぎるぞ」
まだ微笑っている。
あ、ヤバい。怒ってる。
ジズが知る限り、シスイのその美貌が最大限に引き出されるのは、こうやって怒っているときに見せる微笑と人を巧く斬った後に見せる恍惚の微笑。ジズは綺麗なものは大好きなのだが、このはとこに関しては頂けない。最高に綺麗なときは最高に近付きたくないときだ。
「私には死ぬなと云っておいて、これか」
黙っていれば世界中の美女が束になったって敵わない美笑が、空恐ろしい。今の一撃が本日一番の被害となったジズは、口端から血を流してそっぽを向く。男から怒られるのは好きじゃない。
「だって……」
「五月蝿い」
麗しい微笑を消して、ジズの言い訳を遮る。こういう強引な所は、誰かさんに似ているかもしれない。
「生きていれば、楽しいこともあるのだろう?」
「……つらいこともね」
「今更」
解ってる。解ってるよ。
ジズは俯いた。諦めたくない。その気持ちはある。楽しく生きること、素敵な人たちと出逢うこと、その人たちと生きること。諦めたくは、ない。でも。
「……なんかね、気付いちゃったんだ。今度こそ、本当に、置いて逝かれるのがつらいだろうって」
何度か耐えてきたが、今回は、あのコに関しては、共に生きられる時間が永い分。
今度こそ、自分が壊れてしまいそうな気がする。
「だから置いていくのか?」
シスイの脳裏に、銀髪の反逆者の姿が浮かんだ。あの一族のことも知っている。ジズが逃げ出したくなることの内容は、口惜しいが予想がつく。
「一回くらい、いいだろ?」
「一番そのつらさを知っているくせに、それを年端もいかぬ子どもに負わせるか」
「……」
「それも、孤独な子どもに。自分から手を差し伸べておいて、近付いておいて捨てるのか」
「……」
「お前が『人を大切にする』というのは、そういうことなのか?」
「……解ってたんだ」
自分のしていることは、少し……いや、かなり無責任だと。解っていた。ただ、考えないようにしていた。まだ、そんなに互いの距離は縮まっていないと。離れるなら今だと。
今死んでもいいや、なんて自暴自棄になるくらい、もう近付いていたのに!
「解ったんだ」
解っていなかったんだってことが、今、痛いくらいに。
「でも……もう、今更無理だ……」
「だからお前は子どもなんだ」
シスイはジズの元へ歩み寄った。
「私たちには時間がある」
云いながら、シスイは手を差し伸べた。
「嫌になるくらいに」
躊躇いがちにその手を受け入れたジズをやや強引に立たせると、
「行くぞ。お前を死なせたら」
拗ねたようにそっぽを向いて、呟いた。
「私が、ラシャに怒られる」
一瞬、ジズはきょとんとして
「……あはっ!そうだね」
無邪気に笑った。
館を包んだ焔は、総てを燃やし尽くして二日後に消えた。
少ないとは云い難い数の遺体が発見されたが、その多くは生前の面影の判別は不能だった。
「……居ないな」
それでもその総てを確認して、確信をもって娘は呟いた。
「それでこそ、だ。文句の云い甲斐がある」
娘は立ち上がると、後ろで待っている少年の方へ歩き出した。
「待たせたな。では、行くか」
「はい」
少年と娘と、そして老人たちはその場を去った。護衛の兵士に率いられて、先ずは少年の故郷へ。それから、首都へ行くのだ。
少年との約束を果たすために。
そして、すべての誤解を解くために。
〜第四章・完〜
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