ジズと別れた「真の法王」たちは、途中幾度か兵たちと諍いを起こしながらも、着実に出口へと進んでいた。「主賓」を慕う兵士たちに、白い刺繍の施されたマントを纏う兵士が先に話をしていたのだという。その兵士は今、館の中に戻り、こちら側についた兵士たちとリディウスたちの先頭に立って護衛してくれている。
 「さあ、こちらが階段です!火の周りが相当早い、急いで!」
 てきぱきと先導する彼の広い背中に、法王と老人たちは安堵を覚えていた。ただ、殿(しんがり)を申し出た少年だけが、不安と共に何度も後ろを振り返る。
 (シンさん……ジズさん……)
 今、自分にできることは足手纏いにならないことと心配だけしかないのは分かっている。彼女たちのために行動できることは何もない。分かっている。分かってはいるが、気になって仕方が無い。大切な連れたちのことが。強い人たちだということだって、十分身に染みて分かってはいる。でも、無事な姿を見るまでは安心できない。
 (早く……早く来て……!!)
 焔に目を凝らしても、見慣れた銀髪も黒髪も見えない。ぎゅっと胸元を握り締め、後ろ髪を引かれつつも彼は法王たちの方へ向き直った。彼らとの間に少し距離が空いてしまっていた。
 だからこそ、彼の目は今まさに法王たちに向かって落下しそうな梁を捉えることができたのである。
 「危ないっ!!」
 叫んだのが先か動いたのが先かは自分でも判らなかったが、兎に角リディウスはその小さな体で老人たちの背中に思い切り体当たりをしていた。
 「おおっ!?」
 不意をつかれて前方に吹き飛んだ老人たちと、
 「わぁっっ!!」
 跳ね返ってしまった軽すぎる体との間に、燃え盛る大きな梁が落ちる。
 「う……たたっ……」
 尻餅をついた少年の前に、突如できた焔の壁。
 「リディウスくん!!」
 彼を呼ぶ老人たちの声すらかき消されそうだ。一瞬気が遠くなるのを感じながらも、
 「ぼ、僕は大丈夫です!早く、殿下を!」
 大きな声で叫んで、少年は立ち上がった。
 「こっちは、大丈夫です!別の出口を探します!」
 その声が届いたのか、視界を遮る焔の向こうで、老人たちが哀しげに去って行くのが微かに見えた。
 「……」
 彼の胸に、法王たちは無事だという安堵と共に、酷い孤独感がせり上がってくる。
 大丈夫なんかじゃない。別の出口なんか知らない。……どうしよう……
 「こら!」
 泣きそうな自分の両頬をぱちんと叩いて、リディウスは今辿った道を振り返る。
 大丈夫、大丈夫。何処かにロープのようなものがあったと思う。一階までの高さは相当高いけど、ロープさえ見つければ、窓から出られるに違いない。それにこれだけ大きな館だもの、階段が一箇所なんてことはない。大丈夫、大丈夫……
 リディウスは一歩、踏み出した。
 大丈夫。シンさんたちと合流できるかもしれないし。大丈夫……
 彼は今、何に頼ることなく、踏み出した。

 「随分と簡単に人を殺すんだな」
 また一人、彼を護る兵が倒れた。どこまでも自分を信じてくれていた、そして自分に最期まで騙されていた、兵たち。自分を「法王」と思ったまま逝ったのなら、いくらか慰めになるだろうか。
 痛みを胸に、顔を上げるともう、死神と彼を遮るものは何もない。焔すらも、死神を彩るだけの存在となる。
 「貴様らが『悪魔』を殺すよりは、思うところがある」
 冷たい表情は動かさず、死神は語る。怒りと、哀しみと、決意の滲む声で。
 「成る程。だが、君が殺した者たちにも家族が居ることは分かっているのか?」
 「そんなことも分からないで貴様を殺しに来るほど、気楽にできてはいない」
 「分かっていて、やるのか」
 「ああ。貴様が、そうさせた。貴様が、我を狂わせたのだ」
 溜め息をついて、死神を改めて見ればまだ若い。彼がそのくらいの頃には、無邪気に兄と二人、学問とささやかな日々の楽しみに没頭していたというのに……
 「私が、悪いのだな」
 心から、そう思った。
 「そうだ」
 迷いも間も、一片の容赦もなく、死神の応え。彼は思わず微笑んだ。
 「何が可笑しい……?」
 凍るような殺気が彼を刺すが、怖くはない。この死神が目の前に現れた時点で、自分は死ぬと分かっていた。
 「私はね、君。正しいと思うことをやってきたつもりだった」
 「……」
 「尊敬する、兄上のために」
 敬愛する兄が法王になったときは、人生で一番嬉しいと感じた瞬間だった。兄を、歴史に名を残す立派な法王にするのだと、そう思って支えつづけてきたのだから。それが彼の夢でもあった。それなのに。
 「兄上が、異教徒を認めるなどと云いだすから……」
 エルレス教を縮小させるようなことを云うのが信じられなかった。自ら、エルレス教の歴史において最も不名誉な法王になろうとするのが許せなかった。絶対に、許せなかった。
 「……君には悪いがね、私は、兄上のために自分の思う最善を尽くしてきたつもりだった。兄上を、一番輝かしい法王にしたかったのだ。それだけ、だったのだがな……」
 「……貴様は」
 静かに燃える殺意だけを宿していた死神の目に、違う色が浮かんだような気がした。それは、戸惑いと、そして哀れみのような……
 「兄を愛していたのか?それとも、自分の理想を愛していたのか?」
 「……」
 焔が、二人の間で唸る。
 「私、は……」
 そして流れる沈黙の中、死神は腰の短剣を抜いた。だが、逡巡の後、それをそっと鞘に戻す。
 「貴様には、死んでもらう。だが、ここでではない。然るべき裁きを受け、大衆の目の前で、罵られ、焼かれ、死ぬがいい」
 そのくらいの苦しみを味わってもらわねば、割に合わない。今ここで殺してしまえば、自分は楽になるが相手も楽になってしまう。
 唇を噛み締めながら、シンはそう思うことで自分の中の激情を押さえ込んでいた。つい先程までは、考え得る限りの苦痛を与えながら、この手で滅茶苦茶に切り裂いてやりたいと思っていた。本当は今も思っている。だが。
 愛するもののため、信じるもののため、手を朱に染めてきた……
 我と、こやつ、どこが違うのだろう?
 「さあ、一緒に来てもらう」
 そして近づく彼女から、初めて彼は一歩下がった。
 「……それは御免被る」
 訝しげに眉をひそめる彼女の前で、彼は懐から華奢な造りの短剣を取り出した。
 「兄上は、自分の身内を裁いて殺してはならないのだ」
 大衆は、それを家族間での復讐ととるだろう。それは、いけない。血を血で洗う、そんな醜い印象を与えては、いけない。
 「兄上は、馬鹿な弟に幽閉されていた悲劇の法王。それがいい」
 微笑んで、彼は。
 「ぐっ……!」
 自分の胸に、短剣を刺した。
 「……」
 シンは、ただ、見つめる。素人が、そうそう楽に死ねるはずがない。血を吐きながら、法王を騙った男は床に崩れ落ちる。
 「兄上、を……」
 もうシンを見ては居ない。命が確実に消えようとしている目で、彼はそこに居ない兄を見ていた。
 「立派な……王に……したかったんだ……」
 伸ばした腕を、取る者は居ない。
 「兄上……兄さん……にい、さ……」
 風の通り抜けるような音を喉から漏らしながら、それでも彼は兄を呼ぶ。

 やがて、それも途絶えた。

 「……」
 焔の中、立つのは独り。
 全てを見届け、凍った海のような瞳が、溶けた。
 ひとしずく、ふたしずく。
 「父上、母上……っ」
 もう、涸れたものだと思っていた、涙。
 あの日の冷たい雨の代わりに、今は温かい雫が彼女の頬を流れる。
 焔だけが音を立てる部屋で、シンは―――アリアは、天井に遮られた天を仰いだ。総てを失った、あの日のように。そして
 「エルレス……」
 弟の名を、呼んだ。
 「神の加護」という意味の、愛しい名を。

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