シノハラ ヤヨイ、35歳、主婦。大会社「シノハラカンパニー」の社長・シノハラ ヨウゾウの妻であり、彼との間に一人息子・シノハラ タケシが居る。
それだけの情報を確認し、タケダ医師は目の前に坐る女に向き合った。まだまだ若い。涙で化粧も落ちているが、乱れ髪と相まってそれはそれで美しい。
不謹慎かもしれないが、それが、彼のシノハラ ヤヨイに対する感想。
「奥さん、落ち着いて聞いて下さい」
彼が今まで何度も使った事のある台詞を口にすると、ヤヨイはハンカチを握り締めて頷いた。
「正直に申し上げて、旦那さんも息子さんも、厳しい状態です」
形容のしがたい音が、ヤヨイの喉から漏れる。
「運ばれてきたときには、既に二人とも意識はなく……」
「……」
聞いているのかいないのか分からない相手に、医師の説明は続いた。
「……と、いう訳です。……大丈夫ですか?」
「え、ええ、はい……」
ヤヨイは丸めていた背筋を一度ピンと伸ばした。それだけで気丈に見えるし、本人も落ち着いているような気になる。
「つまり、二人とも、機械のおかげで永らえている訳ですね?」
「はい」
しばし、沈黙。
医師は専門的な説明は端折ったが、ヤヨイは話を理解しているようだ。つい数時間前、交通事故に遭いこの病院に担ぎ込まれた夫と息子の状態を。
「……実に言い難いことですが……」
やっと、医師が口を開いた。
「機械を止めても止めなくても、結果は変わらないでしょう」
ヤヨイはそっと目元を拭う。
「……ところで」
医師は渋い顔をして彼女を見る。ただ、真っ直ぐには目を見ようとしない。
「旦那さんの、ご両親は?」
「……あぁ……本当に、駄目なんですね……」
ヤヨイは顔を覆った。もう親戚を呼ばねばならないほど、夫と子の死はそこまで来ているのか。
「奥さん、その、少し、違うのです」
医師は彼女の考えていることに気付き、益々渋い顔になる。
「旦那さんのご両親は、ご存命ですか?」
彼は決してヤヨイの目を見ようとしない。
「え……あの、義父が、居りますが……」
何でそんなことを訊く?と一瞬思ったヤヨイだったが、
「!」
そこは社長夫人、思い当たった。
「機械を止めても止めなくても、結果は変わらないでしょう」
彼女が何かに気付いたことを確認して、医師は先程と同じ台詞を繰り返す。
「ですが」
やはり目を合わせぬまま、更に医師は台詞を加える。
「結果の時期は、変えられます」
「……先生っ……!!」
「失礼」
縋りつきそうなヤヨイに捕まらないよう、医師は素早く立ち上がると、その場を後にした。
「……」
残されたヤヨイは、医師が去ったときと同じ姿勢でじっと床の一点を見つめていた。いや、見てはいるが、目に映る情報は何の意味もなしていない。彼女の脳は今、考えることに必死なのだ。
大変なことになった。
それは最早、つい数分前までの、夫と子に対する「大変」ではない。
これからのことだ。
これからの、自分のことだ。いや、自分と義父のことだ。
つまりは
相続。
「……」
涙の乾いた乱れ髪の女は、先程とは違う強さでハンカチを握り締めていた。
シノハラ ケンゾウ、72歳、無職。大会社「シノハラカンパニー」の社長・シノハラ ヨウゾウの父であり、妻に先立たれ、たった一人の孫・シノハラ タケシが居る。
それだけの情報を確認し、タケダ医師は目の前に坐る老人に向き合った。視線の定まらない目が、残り少ない乱れた白髪と相まって、それはそれは惨めに見える。
失礼かもしれないが、それが、彼のシノハラ ケンゾウに対する感想。
「ケンゾウさん、落ち着いて聞いて下さい」
彼が今まで何度も使った事のある台詞を口にすると、ケンゾウは杖を握り締めて頷いた。
「正直に申し上げて、息子さんもお孫さんも、厳しい状態です」
形容のしがたい音が、ケンゾウの喉から漏れる。
「運ばれてきたときには、既に二人とも意識はなく……」
「……」
聞いているのかいないのか分からない相手に、医師の説明は続いた。
「……と、いう訳です。……大丈夫ですか?」
「え、ええ、はい……」
ケンゾウは丸めていた背筋を一度ピンと伸ばした。それだけで気丈に見えるし、本人も落ち着いているような気になる。
「つまり、二人とも、機械のおかげで永らえている訳ですな?」
「はい」
しばし、沈黙。
医師は専門的な説明は端折ったが、ケンゾウは話を理解しているようだ。つい数時間前、交通事故に遭いこの病院に担ぎ込まれた息子と孫の状態を。
「……実に言い難いことですが……」
やっと、医師が口を開いた。
「機械を止めても止めなくても、結果は変わらないでしょう」
ケンゾウはぐっと唇を噛み締める。
「……ところで」
医師は渋い顔をして彼を見る。ただ、真っ直ぐには目を見ようとしない。
「身内の方は、ケンゾウさんとヤヨイさんだけですね?」
「……あぁ……本当に、駄目なんですなあ……」
ケンゾウは俯いた。もう親戚を呼ぶ呼ばないの話が出るほど、息子と孫の死はそこまで来ているのか。
「ケンゾウさん、その、少し、違うのです」
医師は彼の考えていることに気付き、益々渋い顔になる。
「ヨウゾウさんにお子さんは、タケシくん以外いらっしゃいませんね?」
彼は決してケンゾウの目を見ようとしない。
「はい、居りませんが……?」
何でそんなことを訊く?と一瞬思ったケンゾウだったが、
「!」
そこは元社長、思い当たった。
「機械を止めても止めなくても、結果は変わらないでしょう」
彼が何かに気付いたことを確認して、医師は先程と同じ台詞を繰り返す。
「ですが」
やはり目を合わせぬまま、更に医師は台詞を加える。
「結果の時期は、変えられます」
「……先生っ……!!」
「失礼」
縋りつきそうなケンゾウに捕まらないよう、医師は素早く立ち上がると、その場を後にした。
「……」
残されたケンゾウは、医師が去ったときと同じ姿勢でじっと床の一点を見つめていた。いや、見てはいるが、目に映る情報は何の意味もなしていない。彼の古びた脳は今、考えることに必死なのだ。
大変なことになった。
それは最早、つい数分前までの、子と孫に対する「大変」ではない。
これからのことだ。
これからの、自分のことだ。いや、自分と息子の嫁のことだ。
つまりは
相続。
「……」
残り少ない乱れた白髪頭の老人は、先程とは違う強さで杖を握り締めていた。
ヨウゾウに隠し子は居ない。タケシはまだ10歳で、妻子は勿論居ない。そして、二人の遺言もない。
そうであるから、この二人の相続に関係するのは、ヤヨイとケンゾウのみということになる。
ただし、死亡の順序によっては二人に大きな違いが生まれるのだ。
もし、仮にヨウゾウが先に死んだとする。
そうすると、日本の法律が定める相続分は、ヤヨイが二分の一、そしてまだその時点では生きているタケシが残りの二分の一となる。其の後タケシが死ぬと、ヨウゾウからの相続財産を含めた彼の財産は、ヤヨイ一人が相続することになる。
つまり、ヤヨイが総てを手に入れ、ケンゾウには何の利益も無い。
では、タケシが先に死んだとする。
その場合、まずヤヨイとヨウゾウが二分の一ずつタケシの財産を相続することになる。そしてヨウゾウが死ぬと、タケシからの相続財産を含めた彼の財産をヤヨイが三分の二、ケンゾウが三分の一という割合で相続する。
であるから、ヨウゾウが先に死んだ場合とは違い、ケンゾウはヨウゾウとタケシ、二人の財産を受け継ぐことができる。
では、ヨウゾウとタケシが同時に死んだ場合はどうなるか。
この場合、ヨウゾウとタケシ、この両者間での相続は起きない。その結果として、ヨウゾウの財産は三分の一がケンゾウに、三分の二はヤヨイに相続され、タケシの財産は総てヤヨイに相続されることになる。
つまり。
先にヨウゾウさんが死んでくれた方が、私としては一番得をする。
―――ヤヨイは夫と息子の病室の前で、俯いた。
夫と子どもが重態で死を目前にしているというのに、そんなことを冷静に考えている自分が、限りなく浅はかで薄情な人間に思えた。自己嫌悪だ。
だが、と、心の中で何かが囁く。
自分が夫と苦労して大きくしてきた会社だ。財産だ。それを自分が全部貰って何が悪い?それに、自分はまだまだ若い。これからなのだ。会社の今後も自分にかかっている。老い先短い義父よりも、自分の方が財産を必要としている。
大体……と、更に別の声が囁く。
大体、あの義父は会社を興しておいて経営は碌にせず、会社財産を私用に浪費し、潰しかけた。それを夫が見かねて、自分と共に建て直し、大企業に育て上げたのだ。あの義父はそのくせいつも偉そうに、当然の如く夫に無心してくる。会社の役員に大きな顔をしてみせて、自分はヨウゾウよりも上なのだ、という姿勢を示そうとする。
そんな老人に、大事な夫の財産を渡してなるものか。可愛い子どもの財産も、絶対に。
今や病室の前に立つのは、闘いを決意した戦士だった。
先にタケシが死ぬのが一番俺としては得だ。同時に死んでもまあ良い。
―――ケンゾウは病院の待合室で、頷いた。
息子と孫が瀕死だというのに、こんなことを考えている自分に苦笑を禁じえない。何処まで、薄情で金に五月蝿い人間なのだろうか、と。
だが、彼はそれで自己嫌悪に陥るような人間ではない。老いたといわれる頭脳はまだまだ健全にフル回転して理由を紡ぎだす。
どんなに言葉を飾っても、気分を偽っても、必要なことなのだ。考えねばならない。老い先短いといわれる年齢だが、自分はまだまだ健康で、意識もしっかりしている。そう早くは死なないし、今後のことを考えるとまだまだ金は必要だ。そして、死後のことを考えても、もう一人の子であるヨウゾウの妹・ミツヨのためにも資産は増やしておいた方が良い。
第一、と彼は更に考える。
第一、ヨウゾウの資産といえば自分が興した会社を利用して得た財産だ。自分と今は亡き妻とが手に手をとって興した会社だ。自分が見返りを得て何を非難されることがあろうか。確かに、信頼していた取引先に裏切られて危険な状況にも陥ったが、ヨウゾウに助けられる以前に再建の目処は立っていた。
やはり、一番得が大きいのはタケシが一秒でも先に死んでくれることだ。子どもといえども、ヨウゾウがタケシのためにタケシ名義にしておいた財産は相当あり、馬鹿に出来ない。
となると、さっきのあの医師に頼んで先にタケシの機械を止めてもらうか……
―――背理かもしれないが、彼の脳は、愛する者たちの「死んだ後」のことを考えることで「死にそうな今」を考えないようにしているのだった。
一夜が明け、病室の前でヤヨイとケンゾウは顔を合わせた。両者とも、相手が自分と同じように、医師に含みのある発言をされたことは知らない。
「お義父さん……」
「ヤヨイさん、大変なことになったね」
ええ、と呟いて、ヤヨイは俯いた。飽くまで夫と子どもの身を案じる妻の姿だ。
ケンゾウも、伏目がちに頷いた。飽くまで息子と孫の身を案じる父親の姿だ。
「……ヤヨイさん。辛いことを言うようだが、君は社長の妻だ。現に取締役でもある。万が一のことを、考えておくんだよ」
「っ……はい……」
唇を噛み締めて、ヤヨイは大きく頷いた。ちゃんと考えている。如何にこの老人を出し抜くかを。
「でも、せめて、タケシは……タケシは子どもで回復力もありますし、きっと大丈夫ですよね」
ヤヨイは気丈な笑顔を浮かべながら、そっと目元を拭った。そう、せめて、タケシはヨウゾウより後に死んで欲しい。
「……」
ケンゾウの目が光った。それは困るのだ。
「ヤヨイさん、万が一のことを考えろとは言ったが、決して弱気に成ってはいけないよ。ヨウゾウだってまだ38だ。体力だってまだまだある。きっと大丈夫だ」
きっと大丈夫。10歳児より先に死ぬとは限らない。
「……ええ、そうですね」
「ああ、そうだよ」
精いっぱい辛さを隠している、見る者の胸を締め付けるような微笑を惜しげもなく晒しながら、二人はお互いの敵意を確認しあった。
相手は気付いている。「順番」の重要性を。
「頑張りましょうね、お義父さん」
「ああ。俺等がしっかりせねばな」
それでも互いへの演技は止めない。何故ならば。
「これはこれは……申し訳ありませんが、まだ面会は……」
病室から出てきた、この一見頼りない医師へのアピールのためだ。
「タケダ先生!夫と息子の容態は!?」
「先生!」
必死さを装い……いや、実際必死に二人は医師に詰め寄った。
「昨日申し上げた通りの状態です。残念ですが、変化は見られません」
「そう、ですか……」
ヤヨイは―――襟ぐりの広い服からすらりと曲線を描く、白いうなじを見せつけるように―――角度を付けて俯いた。タケダ医師の目線がそこに注がれているのを横目で確認して、内心ほくそ笑む。己が美しいことと、相手もそう思っていることは、ある程度解っていた。今まではそれをあからさまに誇ることは恥ずかしいと思っていたが、今ならば。そう、今ならば、使えるものはなんだって使う。使うべきだ。
「ところで先生、お話したいことが御座いまして」
その点、外見的にアピールできないケンゾウが、急いで口を挟んだ。直接交渉に持ち込むつもりだ。
「はい、なんでしょう?」
「少し話しにくいことですので、後でお時間を頂けますか?」
「ええ、構いませんが……」
「お義父さん、是非、私もご一緒させて下さい」
当然、ヤヨイも黙っては居ない。
「私も今後の治療について、きちんとお話を伺いたいと思っていましたので」
「いやいやヤヨイさん、ちょっと個人的なことについてお医者様に訊いてみたいことがあったのでね、あまり他人には聞かれたくないんだよ」
他人、という語に微妙なアクセントを潜ませ、続けてケンゾウは「歳が歳だからね、人には言えん身体の悩みがあるものさ」と笑った。ただし、勿論、目は笑っていない。
「……分かりました。では先生、その後にでも、お願いしてよろしいですか?」
流れる黒髪を耳の上に上品にかきあげながら、ほんの少し首を傾げてやや上目遣いでヤヨイはタケダ医師にアピールを続ける。
「ええ、喜んで」
恥ずかしげに視線を逸らし、タケダ医師は無意味に胸元に挿したボールペンを弄った。
よし、とヤヨイは心の中で小さく拳を握る。今までは夫以外の男性にそういった態度を取られると困ったものだが……彼女は自覚もないまま、確かに変化していた。
「タケシの機械を止めて頂きたい」
単刀直入。タケダ医師と二人きりになったところで、ケンゾウは切り出した。すっかり暗くなった外の景色を背に、通常の勤務を終えたタケダ医師の眉が不審そうに寄る。
「……ケンゾウさん」
「お願いします、先生。タケシはまだあんな子どもだ。これ以上苦しませたくない……私もあんな姿を見るに耐えないんです」
涙を浮かべて、老人は自分より遥かに若い医師を拝むように頭をさげた。傍から見れば、胸を締め付けられるような切なさを充分に醸し出している。そう、見事に。
「昨日まで無邪気に走り回っておったんです。おじいちゃん、おじいちゃん、と……可愛い子でしてなあ」
「……ですが、ヨウゾウさんは……」
「ヨウゾウは、責任ある立場の大人です。例え無理……死ぬとしても、会社の今後の見通しが利くまでは、生きてもらわねば困るのです。それが、ヨウゾウの今唯一できる社長の務めです」
「はあ……」
「お願いします、先生。幼い子どもを早く苦しみから解放してやって下さい」
タケダ医師は長く息を吐き出して、目を伏せた。こうなることは予想できていた。
「私の一存では決めかねますので、もう暫く待って下さい。様子をみましょう」
「……分かりました、先生。どうか宜しくお願いします」
ケンゾウは頭を下げると、杖を支えに立ち上がった。そして部屋を出る間際、
「ああ、そうだ先生」
ドアに手を掛けながら、振り向いた。
「今回のことでだいぶお世話になっておりますので、会社から何らかの援助をさせて頂きたいと思っております」
タケダ医師の眉が再び寄った。ただし、今度は注意深く聴こうという気持ちの表れだ。
「いや、こうみえて実質、あの会社はまだ私のものですので、取締役会でも承認されますよ。こちらの病院に是非寄付を……個人的に貴方にも」
タケダ医師が立ち上がろうとしたのを横目に、
「では、失礼」
ケンゾウは立ち去った。
ケンゾウと別れてから、再びタケダ医師に会うまでの時間。ヤヨイは、会社に行っていた。緊急で取締役たちを召集し、会議室で辛気くさい顔を並べている彼らに状況を告げた。
「……と、言うわけです。あのひとが……社長が助かる見込みは、ないそうです」
飽くまで「悲しみに耐える気丈な妻、そして取締役」をヤヨイは演じていた。大会社ながら、先代のケンゾウの頃から家族経営的にやってきた取締役たちは、自分の子どものように幼い頃から見てきたヨウゾウ、そして孫のように成長を見守っていたタケシのことを思い、そして気丈に振舞うヤヨイの健気な姿を見て、やるせない気持ちを抱いていた。だが同時に、それでも他人であることが、冷静に会社の今後を考えさせてもいた。
「では、ヤヨイさん。もしものときのために、我々取締役会が会社をどう経営していくか考えておきなさい」
もっとも古くから居る一人が、厳かに言う。この老人はヤスオカといって、ケンゾウの友人でもある。
「はい……」
頷いて、顔を上げるまでの間にヤヨイは思考を巡らせた。そして口を開く。
「ところで、本日皆様にお集まり頂いたのは、何もお知らせのためだけではありません。今、大きな取引を控えたこの時期に社長がいないというのは、会社にとって重大な打撃です。とりあえず緊急に、仮の代取(代表取締役。この会社では社長である)を決めておいてもよいかと思いまして」
ざわ、と会議室に細波が立った。仮とはいえ、ここで代表取締役とみなされれば、後にそのまま正式に就任することが予想される。重大な問題だ。
「ヤヨイさん、それは急すぎるのでは?」
「いいえ。遅すぎるくらいです。私がもっとしっかりしていれば、昨日の事故の時点で提案できたのですが」
気丈に振る舞い、ヤヨイは辺りを見渡した。老獪な顔、やや若い顔。男も女も居るが、皆ヤヨイよりは年上だ。普段ならば、ヤヨイは慎ましく彼らの言うことを聞いておくところなのだが、今回はそうはいかない。
「私は辞退します。……私情を挟んで申し訳無いのですけれど、夫と子どもを看ていたいので」
まず、己に地位への固執がないことを表明する。地位より家族を優先する、あくまで私情から離れられないただの女を演じる……これで警戒心は薄まるはずだ。後は……
「個人的に、ですけれども。ヤスオカさん、貴方が一番この会社のことを解っていらっしゃるのですから、是非お願いしたいのですが」
会議室中の視線がヤスオカに集まった。確かに、ヤヨイが辞退した今、この面子では彼がもっとも適任である。
「いや、しかしヤヨイさん。そんな急に……」
言いながらも、ヤスオカも満更でなさそうである。
「いいえ。義父の代で会社が危機に陥ったときも、会社を支え、そして私たち夫婦の代になっても、会社を立て直すのにご尽力頂いて。言葉では言い尽くせないほどの感謝をしているのです」
ヤヨイは潤んだ瞳でヤスオカを見詰めた。
どう?素晴らしい提案でしょう?貴方が必死になって働いても、義父は何も与えなかった。私は違う。私は与える。
「うむ……」
急に転がり込んできたうまい話に、ヤスオカは戸惑っているようだ。先代の頃には、自分が代取など、想像もつかなかった……
「……まあ、確かに急かもしれませんね。すいません、焦ってしまって。よくお考え下さい」
ここで一旦、引く。そして
「ところで、会社の財産のことを少々。便宜上、夫名義にしてある土地建物も多くあると思うのですが……減るかもしれません。それを、お知らせしておきたいと思います」
いよいよ本題に入った。
「どういうことだね?」
一人が口を開く。周りには、気付いた者も既にいるようだが、ヤヨイは丁寧に説明を始めた。彼女の夫と子ども、どちらが先に死ぬかで大きく変わってくること……会社の「部外者」であるケンゾウに、財産が流れていく可能性があることを。
「……」
沈黙が流れた。先代と共に仕事をしていた彼らの大部分は、複雑な胸中だ。彼らは確かにケンゾウに世話になったが、同時に世話をしてやったとも言える。それを見越して、ヤヨイは更に続ける。
「……会社財産を守るためとはいえ、夫名義にしていたのが仇となるかもしれません。義父は経営から離れて久しいので、夫の財産の内どれが会社のものか解らないはずですし、それを処分されても文句は言えませんから……夫と共にここまで会社を大きくして下さった皆様には、申し訳御座いませんが」
老人たちはその言葉を免罪符に、先代社長への義理立てを止めた。
そうだ、起業の功労者は間違いなくケンゾウだ。だが、発展と維持の功労者は間違いなくヨウゾウだ。彼ら取締役会の意見を素直に聞き入れ、かつそれを取捨選択して的確な判断を下した、ヨウゾウだ。
いまや部外者の、しかも一度は会社を潰しかけた老いぼれに、何故彼らが築いた財を横から攫われねばならない?
「……ヤヨイさん」
ヤスオカが口を開いた。
「お世話になっている病院とその医師に、是非我々から寄付をしたいと、そう申し入れませんか」
周りの者も頷いた。寄付を餌に、ヨウゾウの機械を先に止めさせるのだと。会社の財産を守れと。
「ええ、そうですね」
ヤヨイは微笑んだ。すべて計算通りだ。
タケダ医師に会いに行ったヤヨイと入れ替わりで会社にやってきたケンゾウは、既に先手を打たれていたという事実に直面した。
いくらヤスオカやその他の取締役に食って掛かっても、全く相手にされないのである。
(なんという恩知らずな!)
半ば追い出されるように会議室を後にした彼は、ヤスオカたちに対しての怒りと、
(甘く見ていたか……!!)
ヤヨイに対しての己の見通しの甘さに、歯噛みしていた。だが、会社の外に出て夜風に当たると、いささか頭も冴えてくる。
(落ち着け、冷静に考えろ……)
虫のたかる街灯の下、ペンキのはげかけたベンチに坐って、彼は対策を練り始める。
彼にとって、息子の嫁に勝る、唯一にして絶対だと思っていた「権力」という武器は失われた。今の彼は単なる老人に過ぎない。ただ、孫が息子より早く死ぬのを期待するだけの……
いや、と彼は自分に反論する。
これまでだって、自分は自分の力でなんとかやってきたではないか。周りがどんなに裏切ろうとも、自分には自分でやるだけの能力がある。それは今でも変わらないはずだ。
(そして……)
彼は杖を握り締めた。
(そして、今、この状況で自力でできることといえば……)
尋常でない光をその目に宿し、彼はゆっくりと立ち上がった。
「夫の機械を止めて下さい」
単刀直入。タケダ医師と二人きりになったところで、ヤヨイは切り出した。完全に暗くなった外の景色を背に、とっくに通常の勤務を終えたタケダ医師の眉が不審そうに寄る。
「……ヤヨイさん」
「お願いします、先生。……あんな姿を見るに耐えないんです」
涙を浮かべて、人妻は自分より少し年上の医師を拝むように頭をさげた。傍から見れば、胸を締め付けられるような切なさを充分に醸し出している。そう、見事に。
「昨日まで元気に呼んでくれたんです……ヤヨイ、ヤヨイ、って……」
「……ですが、タケシくんは……」
「タケシは、まだ子どもです。生命力だって強いはず……最後まで希望を持ちたいのです。それに、私たちの子どもです。親より先に死なないこと……それが、タケシの今唯一できる親孝行です」
「はあ……」
「お願いします、先生。あの人を早く苦しみから解放してやって下さい」
タケダ医師は長く息を吐き出して、目を伏せた。こうなることは予想できていた。
「私の一存では決めかねますので、もう暫く待って下さい。様子をみましょう」
「……分かりました、先生。どうか宜しくお願いします」
ヤヨイは頭を下げると、静かに立ち上がった。そして部屋を出る間際、
「ああ、そうでした先生」
ドアに手を掛けながら、振り向いた。
「今回のことでだいぶお世話になっておりますので、会社から何らかの援助をさせて頂きたいと思っております」
タケダ医師の眉が再び寄った。ただし、今度は注意深く聴こうという気持ちの表れだ。
「先ほど取締役会で、先生に大変お世話になっていることを説明致しましたら、是非、お礼をしたいと皆さん仰られまして。こちらの病院に是非寄付を……個人的に貴方にも」
タケダ医師が立ち上がろうとしたのを横目に、
「では、失礼」
ヤヨイは立ち去った。
艶やかな笑みを残して。
それから数日は、穏やかに過ぎた。飽くまで表面上は。
意識不明の二人への面会も許されるようになり、ヤヨイとケンゾウは病室で談笑することもあった。だが、ヤヨイには不安があった。ケンゾウの最近の様子だ。ヤヨイはケンゾウに対しての勝利を確信していたので、態度にも余裕があった。それは自覚しているし、当然だと思う。
しかし、ケンゾウの態度にも余裕が感じられるのだ。ケンゾウにもなにか勝算があるのだろうか。気にしすぎだろうか。だが、あの老人の性格上、諦めたとは思えない……
ヤヨイが不安になるのも当然であった。老人は、冷静に状況の観察を続け、計画を練り、準備を整え、じっと待っていたのだ。
タケシの病室から、人がいなくなる時を。
まず、観察によって、機械の主電源らしきものを確認した。チューブが何処から出て何処に繋がっているかもほぼ理解した。病室内、及び付近の廊下に監視カメラ等が無いことも確認した。
次に、観察に加えて聞き込みをすることで、病室から看護士や医者が居なくなる時間を把握した。だが、その時間はやや流動的なので気は抜けない。救急病院であることも悩みの種だ。
その点の心配はさておき、必要と思われる道具も用意した。指紋を残さない為の手袋、邪魔にならない大きさの懐中電灯、ニッパー、その他。急いで移動しても杖の音が響かないよう、杖先に装着するゴムキャップも新調した。
逃走経路とその方法の確保にも抜かりは無い。夜間出入り口の守衛室の前は、這って進めば見つからない。それに予定時刻の頃は、大抵守衛は居眠りをしていることも確認している。
そこまで頭の中で整理して、ケンゾウはにやりと笑った。
医師に頼ることができなくなった彼は、己の手で孫の機械……ひいては息の根を止めることに思い至ったのである。独立起業の根性は彼に染み付いているのだ。頼れるものは、己のみ。
そして間もなく、彼にとって絶好の実行日和がやってきたのだった。
月の無い夜だった。面会時間はとうに過ぎている病院の、「故障中」の張り紙がしてあるトイレの個室から、独りの老人が滑り出た。勿論ケンゾウだ。音を立てぬよう細心の注意を払いながら廊下に出て、辺りを窺う。タケシの病室はすぐそこだ。
(飽くまで、事故を装う)
老人は脳内で入念にシュミレートを繰り返す。大丈夫、大丈夫……この数日で自分に言い聞かせること数千回。
スライド式のドアの取っ手を掴む。手袋の中は汗ばんでいる。力を込め、ゆっくりと、音を立てないように、ゆっくりと、開く。
薄闇の中、小さな子どもとチューブで繋がっている機械のランプだけが、自己主張している。
老人はそっと足を踏み出した。
「今晩は、お義父さん」
唐突に点いた部屋の灯りとどこまでも冷静なその声が、彼の歩みをただの一歩に留めたが。
「今晩は」
ケンゾウのすぐ目の前。電灯のスイッチに白い指を押し付けたまま、ヤヨイはもう一度繰り返した。うっすら浮かぶ笑みは、自分でも気付かない虚勢と安堵の為せる業だ。
「おや……ヤヨイさん、貴女も、心配で来たのかね?」
瞬間的に渇いた喉と、今ここに居る理由を誤魔化すように、ケンゾウは彼女へ朗らかに語りかける。
「ええ。大切な息子の機械が止められないか心配で」
ヤヨイも朗らかに応える。掌がじっとりと汗ばむのは仕方が無い。今目の前に居るのは追い詰められようとしている殺人未遂犯だ。
「……」
「……」
二人の間に、じりじりと産毛を焼くような沈黙が流れる。至近距離であることが、どちらにも言い様の無い圧迫を与える。しかし、二人とも動かない。動けない。
ケンゾウはなんとでも取り繕って出て行こうと思った。しかし、杖で歩行している彼はヤヨイにすぐ追いつかれてしまうし、彼女が人を呼ぼうものならポケットに忍ばせているニッパーその他の説明をせねばならない。……選択肢としては、彼女をこの場で殺してしまうこともあり得るが、体力的にだけでなく、流石に巡回や周りの入院患者に気付かれずに静かにやり遂げる自信はない。
(詰み、か……)
流石のケンゾウも諦めかけている一方で、ヤヨイも密かに焦っていた。
(……どうしましょう……)
ここ数日のケンゾウの様子に危機感を抱き、万が一に備えて息子の病室で見張ることにしたのは正解だった。実際、ケンゾウが部屋に入って来た瞬間は、極度の緊張と同時に息子を守ることができそうだという安堵を覚えた。
だが。しかしである。
如何せん、いざこのような状況に直面したとき、どう対応すればいいのかわからなくなった。すぐにナースコールを押す、大声を出す、警察に連絡する、などなど……解ってはいるが、どれが最も適切なのかは解らない。それは、母親としてでなく、今、会社を守るべき取締役として。
(会社のスキャンダルは避けたい……だけど……)
彼女が考えていたのは、ケンゾウとの取引。内密にしておく代わりに、先にヨウゾウの機械を止めるのを認めること。だが、
(息子を、殺そうとしたのよ)
これは、母親として。
彼女とて、ケンゾウからすれば彼の息子の命をさっさと絶つよう医師に依頼しているのだから、似たもの同士なのではあるが。
「……お義父さん」
「……ヤヨイさん」
ややあって、二人が同時に口を開いた。
その時であった。
「おや!お二人ともいらしてたんですか」
慌ただしく、タケダ医師と数人の看護士たちが彼らの病室へとやってきた。ヤヨイとケンゾウに、二人にしか分からない緊張が走る。
「こ、今晩は」
「面会時間は過ぎていますよ。いや、そんなことはどうでもいい!」
タケダ医師は二人の気持ちなど知らず、やや興奮気味に満面の笑顔を向けてきた。
「喜んでください、お二人とも!嬉しいニュースですよ!」
まだ反応の鈍い二人の横で、看護士たちがてきぱきとタケシのベッドを移動させ始めた。
「ああ、そうそう、事後承諾を頂こうと思ってたんですが、丁度良い。今、タケシくんとヨウゾウさんの手術の許可を頂きたい!」
「え?え、ええ、お任せします……けど……あの……?」
タケシのベッドに続いて廊下へと移動しながら、ヤヨイは戸惑いを隠せない。必死に杖をついて追いかけるケンゾウも同様だ。
「今夜、この病院にやってきたんですよ!」
相変わらず興奮気味のタケダ医師は、二人の知りたいことをずばりとは喋ってくれない。
「だから、何がですか?」
苛立ち始めたケンゾウの後ろから、タケシと同じようにヨウゾウも運ばれてきた。
「彼ですよ、ほら、ご存知ありませんか?」
手術室の前で、うっとりとした瞳をタケダ医師は二人に向けた。
「現代のブラック・ジャックと呼ばれる人ですよ!!」
続いてタケダ医師が口にした名前は、ヤヨイたちも何度かテレビで見たことのある人物の名前だった。確か、現代医療の水準を遥かに越える技術を持つ、「不可能を可能にする奇跡の天才外科医」だとか……
「彼が今夜、偶然この病院にやってきてましてね、ヨウゾウさんたちのカルテを見て、『今なら二人とも治せる』って!良かったですね、お二人とも!!」
生ける伝説とでもいうべき憧れの医師のオペに立ち会えることにはしゃぎ、タケダ医師は満面の笑顔を浮かべたまま手術室へと吸い込まれていった。
「……」
「……」
残された二人は、いつまでも呆然と、ただただ立ち尽くすよりなかった。
Happy End ?