脅迫的遺言。

 一、金持ちと不法侵入者

 彼は日本でもっともお金を持っている人間だ。正確に言うと、日本で一番経済価値のある資産を持っている人間だ。勿論、そういう時期になると新聞に彼の名前が一番上に載って全国の庶民を羨ましがらせるし、全国の所謂資産家たちは口惜しがる訳だ。
 彼は若い頃から持ち前の冴えた頭と曲がりくねったド根性と人を蹴落とす才能とでもってこの地位を築いた。彼を特集したTV番組もいつの頃かあったし新聞の取材もあったがあまりの視聴率の低さと苦情の多さ故にそういった依頼もぱったり来なくなった。苦情メールの一つを紹介させて頂くとこうだ。
『いくら金持ちでもあんな人間にはなりたくありません。非常に不快です。もう二度とあんな人の特集なんかしないで下さい。最低です。世の中不平等です(以下略)』
 街で彼を見かけて笑顔を向けるのは商売人だけだ。残りは全てが嫌なモノでも見るような―実際そうだが―目で彼を睨む。もっとも、本人はそんなこと気にもしていない。そういう人間だ。

 そんな彼がある日、自分の豪邸(いえ)の居間で、一人の男に出逢った。
 「あの〜、すいません。お邪魔しています」
 ひょろりと痩せた、蒼白い顔の眼鏡の・・・分かりやすく言えば家庭で妻の尻にひかれ土日はTVの前で寝転び子供に遊園地に連れて行って約束でしょーと催促され会社では上司と部下の板ばさみになって胃を壊して入院してそうな・・・まあ、そんな男だった。
 そんな男が。
 ある日突然。
 セキュリティシステムは万全の自分の家の居間で。
 見るからに高そうなカーペットを避けて硬い床の上に正座して。
 自分に会釈していた。
 「・・・」
 まだ、若い。32,3といったところか。今日の来客予定にそのような者はいない。いたとしても客間に通すように家政婦には言ってある。・・・そこまでコンマ1秒で考えて、彼はガードマンを呼ぶべく大声を上げようとした。
 「ああああの待って下さい待って下さい!!」
 しかし男は彼よりコンマ001秒早く大声を上げた。
 「怪しいモノじゃないんです!!本当です!!信じてください!!」
 怪しくないことがあろうか(反語的表現)。彼は侮蔑の冷たい視線を男に向けた。
 「君のその馬鹿でかい声ですぐにウチのガードマンたちが飛んでくると思うがね」
 「あ・・・」
 しかし何故だろう。何時もどたばたと優雅さの欠片もなく駆け回る男たちの足音が、中々聞こえてこない。給料を下げてやる。
 彼は幾度もピンチを切り抜けてきたものらしく冷静に・・・というか、彼は自分が怪我をしたり死んだりなんてことは絶対無いと根拠のない自信があるのだが、兎に角落ち着いて男に向き合った。
 「ウチのガードマン達はあまり職務熱心でないらしい。しかしまあ、流石に私が大声を上げればすぐに来るとは思うがね。さて・・・君の雇い主は誰だ?」
 男はこんな所に正座して自分を待っていたようだ。プロにせよアマにせよ殺し屋ではあるまい。先ほど大声を上げようとしたら必死に静止した所をみると人を呼ばれたら困るらしい。ということは呼べば来るガードマンは優位に立てる好カードだ。この際、目的と黒幕を探っておこう。・・・そこまでをコンマ2秒で考えて彼は男から微妙に距離を取って尋ねた。
 「あ、はい。私、タチカワ有限会社に勤務しております。社長はクロダ社長です」
 「・・・」
 予想と違う反応だ。
 「あ、ご存知ない・・・ですか?ですよね。田舎の小さな会社でして」
 「・・・」
 どう返せばいいのか。
 「あの・・・?」
 「・・・君の目的は?」
 とりあえずそこのところを聞いておこう。それが第一だ。
 「・・・大変お恥ずかしい話ですが・・・」
 男は本当に恥ずかしそうに俯いた。
 「・・・お金を・・・頂きたいのです・・・」
 「は!」
 何かと思えば、なんだ泥棒か。しかし
 「では何故私を待っていた?金庫でも何でも漁って持っていけば良かったじゃないか」
 「そ、そんなこと出来ませんよ!!それは泥棒です!!!」
 不法侵入者が何を言う。そんな彼の心が読めたのか、男はまた俯いた。
 「あの、こんなに広いお家は初めてで・・・どこから入って良いのか分からなくって、でも大きい方の玄関は立派すぎてこんな格好で入るのは面目なくってですね・・・」
 男は自分のくたびれたスーツのほつれた裾を気にしているようだ。
 「じゃあどこから入った?」
 「はい、大きい玄関から見て右手側の塀をず〜〜〜っっっと行った所にワンサイズ小さな立派な門があったので、そこから」
 そこは使用人たちの通用口であって、彼の認識では立派でも門でもないのだが。
 「で?無断で入ってきて私にたかっている訳だ?」
 「い、いいえいいえ!!あの、でも何度大声で呼びかけても返事も無いし・・・」
 「で、無断で入ったんだな?」
 「・・・はい」
 これで少なくとも不法侵入は成立だ。
 「しかし誰にも見つからずにここまで来れたのか?」
 「はあ、それが・・・何人かの方と擦れ違いましたが、皆さんお忙しいようで・・・」
 ついでに使用人たちの給金カットの口実も出来た訳だ。彼はざっと今月の収支を計算しながら椅子に腰掛けた。完全にくつろぎモードである。彼は、暇つぶしにこの一風変わった不法侵入者と喋ってみようと思っていた。
 「まあ、やるつもりは毛頭ないが、君は幾ら欲しいんだ?」
 正座したままの男を見下ろし問うと、男は恐る恐る2本の指を立てた。
 「2兆か」
 「にちょっ!!?い、いえいえそんなとんでもない!!!2億です!!」
 それでもとんでもないと思うが。
 「・・・厚かましいのは重々承知です。でも・・・どうしても必要なんです・・・」
 「ほう。2億ねえ。で、何に要るんだ?借金でもあるのか?」
 「いいえ。家は賃貸ですからローンもありませんし車も・・・」
 そこで一旦言葉を切って、男は真剣な目で彼を見つめた。
 「息子が、病気なんです」
 そして男が彼に告げた病名は、べらぼうに高い死亡率と治療費で有名なものだった。
 「ほほう。しかし2億は欲張りすぎじゃないかね?」
 「手術代と・・・海外に行く為の旅費、そして手術待ちの間の入院費、術後のケアとその間の生活費を考えると・・・」
 まあ、そうかもしれない。しかし
 「・・・何故私が、見も知らぬ子供の為に金を出さねばならない?」
 その病気が有名な理由は他にもある。ドラマで薄幸の美少女がかかるのが定番だからなのと、時折善意のカンパで集まった治療費で子供が手術をしに海外へいくのがニュースになるからだ。そういうのは、そういった「善意」の人々がやればいいと彼は思っている。何の利益もないことを自分がやる義理はない。
 「あなたが、この国で一番大金持ちと番付が・・・」
 「金持ちなら、金を出さねばならないと?世界の幾らいるか分からない病人全ての面倒を見ろと?自分の意志に関係なく?・・・悪いが、私はそんなことの為に金を稼いだのではない。自分のためだ。自分以外の誰かに自分の稼いだ金を使うなんて、馬鹿馬鹿しい。愚の骨頂だ」
 実際、彼には妻も子も居ない。居れば煩わしいし金も使うし損にしかならないと思っている。
 「愚の・・・骨頂、ですか?」
 男は哀しそうに眉をしかめた。
 「ああそうだ。君も善意の人々の寄り合いに頼れば良いじゃないか」
 「でも、それじゃ間に合わないんです!!」
 「じゃあ、財産を処分して君が死ねばいい。保険は掛けてるんだろう?」
 彼が冷酷だと言われるところは、こういうところだ。しかし彼的には、すぐに大金が残せる方法を提示したにすぎない。
 「それでも足りないんです・・・」
 男は他の人間の様にムッとすることもなく応えた。彼は保険で賄えると思ったのだろうが、しかし男は庶民。彼のような大資産家とは、保険金の額が違う。
 「知ることか。・・・もういい、飽きた。帰りたまえ」
 だんだん男の事が煩わしくなってきた彼が手元の呼び鈴を鳴らそうとすると、男は勢い良く土下座した。
 「お願いしますお願いします!!!助けて下さい!!息子はまだ三つなんです!!」
 「知るか。頭を下げるなら相手を選べ。慈善家や見栄っ張りの金持ちがいるだろう」
 「でも・・・!!」
 「いいから、帰りたまえ。・・・今なら、暇つぶしの礼に通報はしない」
 「・・・」
 男は俯くと、すっくと立ち上がり、そして何かを決意したのか案外強い眼差しで彼を見下した。ゆっくりと口を開く。
 「そんなこと言ってると・・・死にますよ・・・?」
 「ほう。今度は脅迫か?」
 平然と応えながら、彼はいつでも逃げられるよう、すぐに立てる体勢をとる。しかし男は
 「いいえ。僕が死ぬんです」
 とあっけらかんと応えた。

 

 二、脅迫的遺言

 「・・・脅迫のつもりか?」
 彼を恨む文句を遺書に残して死んだ者は大勢いる。だが、それがどうした、と彼は思っているし、あらゆる事は『上手く』やってのけていたので証拠もなく、法律に咎められる事も無かった。
 「いいえ。そんなつもりはありません」
 「君が死んでも2億にはならないんじゃなかったのか?」
 「そうです、保険ではなりません」
 「じゃあどうした」
 「はい、提案を変えます。・・・僕に、2億貸して下さい」
 2億円貸すのと男が死ぬということにどういったつながりがあるのだろう?
 「最初っから虫の良すぎる話だと自分でも思っていたんです。そうですよね、寄付ではなく借金をお願いすればよかったんだ」
 「・・・失礼だが、君の年収は?担保はあるのかね?」
 「・・・あの・・・おっしゃりたい事は分かってます。完済まで何年かかるか・・・」
 「本当によく分かっているじゃないか。ではこの話は無しだ」
 「あ、あのでも」
 「貸さねば死ぬというつもりだろうが生憎そういった類の文句は・・・」
 「いや、だからそういうんじゃないです。貸してくだされば死にます」
 「・・・・・・・何を言ってるんだ、君は」
 男はにっこりと笑った。
 「はい、お借りするからにはお返しします。でも僕がどれだけ頑張ったって返しきれないかもしれない。だから、先ずは少し、僕の保険金で返して、それから妻と、手術が成功して元気に成長する僕の息子が残りを返すんです」
 「・・・」
 彼は呆れれば良いのか怒れば良いのかはたまた笑えば良いのか分からなかった。が、男は自分の考えが名案だと思っているのか、満足そうに微笑んでいる。
 「・・・君の息子の将来性に融資しろと?」
 「ああ、はい、そう言っていただけると中々素敵ですね」
 「素敵かどうかは知らないが・・・馬鹿げている」
 「そうでしょうか?」
 男は楽しそうに応えた。
 「そうだとも。君の息子が助かるかどうかさえ分からない」
 「いいえ。あの子は助かります。あなたがお金を貸して下されば」
 「・・・これだから親は駄目なんだ。子供の事になると盲目的だ」
 「ははは・・・だって、可愛いんですもん」
 男は照れながら、懐から小銭で不恰好に膨れた財布を取り出し、その中から一枚の写真を抜き取ってみせた。
 「見て下さい。これはまだあの子が元気だった頃、初めて海に連れて行った時の写真です」
 可愛いでしょう?と相を崩して聞く男を無視して彼は興味なさげに・・・実際興味も無く写真を見た。1歳ぐらいの子供が浮き輪を抱えて笑っている。ただ、それだけだ。彼にとっては何の意味も無い。
 「そしてこれが・・・今の息子です」
 男はもう一枚、写真を取り出した。
 「・・・」
 その写真でも男の息子は笑っていた。自分がどういった状態なのか、解っていないような笑顔だ。
 「・・・お願いします」
 男はまた深々と頭を下げた。
 「・・・」
 それでも、はっきりいって彼にはどうでも良かった。良かったが、しかし・・・彼は、少々この男自身に興味が湧いていた。そして彼は、自分の為に―――自分の興味のあるものの為には金を惜しまない人間である。
 「で、私が貸さなかったら?どうするつもりだ?」
 「え・・・う、恨みます!!」
 「いや、金の事だ」
 「あう、その・・・そうですね、手遅れになるのは解ってますが、善意の皆さんにお縋りするよりないでしょうね」
 哀しげに微笑む男のそのセリフを聞き、彼は少しだけ考えた。善意の人々が一人頭幾らくらい出すのだろうかと。・・・1万出すだろうか?もっと少ないだろうか?もしかして街頭募金などでは?それで二億かき集めるのだろうか?・・・そして彼は思った。二億くらい捨ててもいいかな、と。・・・決して「善意」ではない。ただ、彼は想像したのである。二億分の小銭を。そして、なんとも気持ちが悪くなったのである。何故なら彼は、「おつりは要らない」人間、若しくは「カードで」、更に言えば「小切手で」払うのを美徳とする人間で・・・つまりは小銭が嫌いな人間なのだ。ただ、それだけだ。
 興味と嫌悪の払拭が一致したのなら、彼の行動は早い。
 「よし、それではこれを持って行きたまえ」
 言うなり、懐から(男は実物を見たことも無い)小切手を取り出し、すらすらと必要事項を書いた。ここに二億分の小切手、完成である。
 「え・・・あ、ありがとうございます!!ありがとうございます!!」
 男は一瞬間の抜けた顔をした後、猛烈な勢いでお辞儀を繰り返した。
 「しかし良いのか?君の息子は助かるやも知れんが、君は死ぬつもりだろう?」
 勿論、彼は男が本当に死ぬつもりだとは思っていない。
 「ええ、あの子が元気なら、本望です。それに・・・いえ、本当にありがとうございます」
 しかし彼の言葉に含まれたニュアンスに気付いていないような男は、何かを言いかけて誤魔化すようにもう一度お辞儀をした。彼はそれには突っ込まず、いきなり不法侵入してきて金をよこせだの貸せだの言った割に腰の低い男にいささかの厭味を込めて言った。
 「君はアレだな、俗に言う“いいひと”だな」
 「はあ、そうでしょうか?でも、そうだとしてもそれだけじゃ、家族も救えません」
 それに貸してくださる貴方の方がいいひとですよ、と男は笑った。彼は自分がいいひととは微塵も思っていなかったが、お世辞でなく本心で言われると何やら妙な気分である。それが厭味に気付かれなかった時は、特に。
 「では、本当にありがとうございました!!あの、これ、名刺です。こちらにご連絡下さいね」
 「ふん。まあ、期待せずに待つとするよ」
 男は苦笑したが、もう一度深く頭をさげ、ドアの方に向かった。ノブに手を掛け、ふと振り返る。
 「あの・・・今更悪いんですが・・・」
 「まだ何か?」
 「・・・一つだけ、出来もしない事言いました」
 彼は軽く鼻で笑った。
 「構わんよ」
 そうだ。死ねるわけがない。
 「・・・まあ、本当にありがとうございました。失礼します」
 男は微妙な顔をして部屋を出て行った。彼は軽く息をつき、呼び鈴を鳴らした。すぐに現れた家政婦に飲み物を頼むと、彼は先ほど渡された名刺を見た。あの男にお似合いの、平凡な名前が書いてある。
 「・・・?」
 名前の横に、所々赤い小さな染みが出来ている。ポケットの中に赤ペンでも入れていて、それがインク漏れを起こしたのだろう。あの運のなさそうな男にぴったりの事態だ、と彼は思いつつ、その名刺をテーブルに軽く飛ばす。それで、今の一件は放っておくことにした。
 他の取引の事を考え始めた彼の横でテーブルに着地した名刺の裏は、
 一面、真っ赤だった。

 

 三、たったひとつの大いなる秘密

 彼が男に二億貸してから、割と間もなく。彼のもとに一人の女が現れた。家政婦の知らぬ女だったしアポもなかったのでそのまま帰すつもりだったが、女の名乗った苗字が、あの男と一緒だった。
 「初めまして・・・息子の件で、大変お世話になりました」
 やはりあの男の妻だ。
 「いや、どうってことはない。で?息子さんとご主人は元気かね?まさかもう自殺したのかね?」
 女の顔は一瞬強張った。が、静かに口を開く。
 「息子は、手術も成功して経過も順調です。もう、心配ないだろうと、お医者様が・・・」
 それから女は少し俯いて、ポーチの中を探り、品のいい風呂敷に包まれた何かを取り出した。それを彼に渡す。
 「これ・・・夫の保険金です。少ないですが、お納めください」
 「な・・・!」
 絶句。彼は暫く自分の手にあるものを見つめるより他なかった。まさか本当に死ぬとは・・・
 「・・・ご主人、は・・・」
 「はい、交通事故で・・・」
 「事故?」
 自殺だと保険金が受け取れなかったり額が大幅に減ったりもする。わざわざそこまでしてこの金を残したのか。
 「いつ、お亡くなりに?」
 極普通の話題として聞いた彼に返ってきた応えは、極奇妙なものだった。
 「はい、先月の10日に」
 何が奇妙かといえば。
 先月の10日といえば
 彼が男に金を貸した
 その前日なのである。
 「・・・・・・・・・・・・奥さん、それはおかしい」
 「・・・おっしゃりたい事は、分かります」
 女は幾分困ったような顔をした。
 「信じてもらえないだろうと思って・・・いいえ、是非誰かに信じてもらいたくて」
 そう言って女がまたポーチから取り出して見せたのは、あの男の死亡証明書だった。・・・確かに、先月の10日に死亡したと、その紙は言っている。
 「・・・息子の手術のお金も用意できないし、もう死んでしまおうと思ったんです。あの人が、死んだ日・・・」
 女はじっと彼の手にある風呂敷を見つめていた。
 「それで次の日、息子のベッドの脇で泣き疲れて眠っていたら・・・あの人が」
 これが俗に言う「夢枕に立つ」、というヤツだろうか。
 「都合の良い夢だと思いました。いきなり二億分の小切手を持って現れるんですもの。ああ、私疲れてるんだわ、って」
 女は小さく微笑んだ後、彼を見つめた。
 「彼は貴方に借りてきたと、言いました。下りたばかりの保険金はその返済に充てて、残りはゆっくりでもいいから二人で返せって。・・・死んでもあの人らしいでしょう?」
 この話が本当ならば「死んだ後」の男しか知らないのだが、彼は頷いておくことにした。
 「よく出来た夢だと、それでも思っていたんです。でも・・・違いました。朝になっても、小切手が消えないんですもの」
 女はまた風呂敷に視線を移す。
 「残りは、きちんとお返しします。ですから先ずは、あの人の“遺言”どおり、そちらをお納め下さい」
 「・・・」
 彼は、さて、どうしたものかと思った。正直、信じ難い。しかし、死亡証明書は彼も何度か見たことがあるが本物だった。そしてあの男に金を貸したのは確かに先月の11日だ。自分の記憶違いではない。
 「・・・」
 彼は更に考えた。もし、百歩譲って非科学的なことを信じるとしよう。すると、どうにも細かいことに合点がいく。彼がくしゃみをしたくらいで駆けつけるガードマンたちは男の大声には反応せず、また誰にも咎められる事無く居間にまで侵入した。真っ赤に染まった名刺も、今考えると、もしや・・・それに、男が言った「出来もしない事」・・・確かに、死ねるわけがない。既に死んでいるのなら。
 ・・・もう、いいや。
 「分かった。奥さん、これは確かに受け取ろう」
 彼は、考えるのが面倒になったというよりはむしろ、とことん面白いヤツめ、と思った。
 「それで・・・彼は私のちょっとした友人でね。これは・・・」
 彼は懐から小切手を取り出し、相変わらずすらすらと淀みなく記入し、女に握らせた。
 「香典だ。受け取ってくれたまえ」
 「え・・・!!」
 女は目を大きく見開いた。小切手の額面は・・・3億。いくら丸の数を数え直しても、3億。香典に3億なんて聞いたこともない。それとも金持ちはそんなものなのかしらと女は混乱しつつある頭で思った。落ち着け、落ち着きなさい私。何か言わなきゃ・・・
 「こ、こんな大金いただけません!」
 言いつつ、そうよもし受け取ったら香典返しが出来ないわとかやや現実的な事を考え始めた女を尻目に、彼は口を開く。
 「ああ、遠慮しないでくれ。お返しはいらないし・・・相殺済みだからな」
 「え?」
 彼は呼び鈴を鳴らして、家政婦に客の帰りを告げた。そしてまた女に向き直る。
 「5億やるつもりだったが、面倒だから君たちの借金と相殺させてもらって、3億だ。さあ、帰りなさい」
 女は暫く呆然とした後、夫と同じように猛烈な勢いでお辞儀と礼を繰り返した。繰り返したまま、家政婦に引きずられるように退室していった。
 
 「・・・ふう」
 彼は一人になった応接間で、息を吐いた。まったく、信じられん。男のやった事もだが、自分の行動がまた信じられん。
 「・・・ふ・・・はは・・・はっはっはっは!!」
 しかし今はそれが愉快だ。ここ数十年どこかに行っていた彼の心からの笑いは部屋中に響いた。ガードマンたちが飛んできたが大笑いしている彼を見て戸惑い、彼の「退け」を表す手の動きで不思議そうな顔を並べて出て行った。
 「まったく、訳がわからん!!ああ、分からんともさ!!」
 大笑いを続ける彼の耳に、どこからか

 ―――ありがとうございます―――

 男の声が、聞こえた気がした。
 

 その後、彼は50億円を例の病気の為の団体に寄付した。周りには気味悪がられたり怪しまれたりしたが、構わない。彼は、そういう人間だ。

 そして数十万で、御祓いをしたとの噂である。


脅迫的遺言。・完

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