〜第二章〜 渇き

 娘は家路を急いでいた。
 その手には、籠。中には、本日数回目の誕生日を迎える弟のために、かなり遠くまで摘みに行った溢れんばかりの花々。何色、と数えるのももう無理だ。零れそうな色彩。
 娘は急に曇り始めた空を見上げ、柳眉をひそめて頬を膨らませた。次いで花篭に目を遣り、今度は幸せそうに微笑んだ。弟は、きっと喜ぶだろう。花を愛し、花に愛される弟だから。
 娘は家路を急ぐ。
 早く帰ろう。早く、見せてやろう。そして唄おう。あれは、我の歌を歓ぶから。
 遠くに丘が見えた。その向こうに娘の一族が居る。娘の弟を祝う為に、一族皆で準備をしているはずだ。
 その丘の向こうから

 煙があがった。


 「……くださ……ンさ……」
 声が、する。
 どこか遠くから、微かに。
 応えるのも面倒で、声から遠ざかろうと身体を背けるが
 「起きて下さい、シンさん!」
 急にはっきりと聞こえた、切羽詰った声。目を開けると、そこには知り合ったばかりの少年。何故か泣きそうな顔をしている。
 「……どうした」
 身体を起こして軽く頭を振り、完全に覚醒(おき)る。ちらりと窓の方を見るが、まだ日は落ちていない。
 「出立は夜ではないのか?」
 「そうですけど……大丈夫ですか?」
 「何が」
 「その……」
 「リディは心配してくれてたんだよ」
 云い澱む少年の後ろから、ジズがひょいと顔をのぞかせた。
 「おはよ。君、うなされてたよ」
 「我が?」
 「うん。色っぽく」
 次の瞬間、目にも留まらぬアッパーがジズの顎を捉えた。彼の身体が一瞬浮いたように見えたのはきっと気のせいだ、とリディウスは思うことにした。
 「我は大丈夫だ。心配をかけたな」
 顎を押さえてうずくまる男は大丈夫そうでないが、それは綺麗に無視してシンはリディウスに視線を移した。
 「い、いえ、こちらこそ思わず起こしてしまって」
 「構わん」
 身体にはもう疲れは残っていない。元々遊牧の民だ。一日中歩き通すことも苦ではない。いかに昨夜一晩中走り続け、今日も昼まで歩き通したといえども、ほんの少しの休憩を取れれば充分に体力は回復できる。
 「それより、お前の方こそもう少し寝ておけ」
 「いえ!僕はずっと寝てましたから。おまけにジズさんに運んで頂いて……」
 少年は申し訳なさそうに目を伏せる。横で、復活したジズが「いいよ、軽かったし」とへらへら笑っていたが、
 「ああ、でもホント、寝といた方がイイよ?あとちょっと時間がある。横になるだけでイイから、寝ときなよ」
 ぽん、と少年の頭に手を置いた。
 「砂漠が近いからね、旅慣れてないコはキツイと思うよ」
 「そう、なんですか……?」
 ちょっと怯えを宿した上目遣いでジズを見る。リディウスは、北の砂漠に行ったことが無い。いや、6歳で親元を離れて以来、あの街を―――聖エルレスを出たこと自体、数えるほどしかない。砂漠については噂しか聞いたことがないが、どれも過酷な地であることを推察させるものばかりだった。昼と夜で人間の体温以上に温度が変わるとか、毒を持った蟲が居るとか、砂が人を呑み込むとか……自然環境以外に、砂賊が出るとの情報もある。一生行かずに過ごしたいと思っていたのだが。
 「そうだよ。いや〜、あんなのやこんなのが出てくるからねえ。俺でもアレはキツかったからなあ。君なんかああなっちゃうんじゃないかな」
 「ど、どうなっちゃうんですか!?」
 楽しそうに適当なことを云う男にからかわれているのも解らず、真剣に怯えている少年を尻目にシンは流れるような動作でベッドから立ち上がった。そのまま一連の動きであるとでもいうかのように自然にリディウスを抱きかかえると、自分の居たベッドに投げ出した。その間、一瞬。リディウス本人も自分の身に何が起きたのか把握しかねていたが、ジズも適当なことを云おうと口を開きかけたまま硬直している。
 「休める時に休んでおけ」
 そんな二人の様子も知らず、シンは小屋の窓辺に座った。やっとジズの硬直が解ける。
 「俺が云うのもなんだけど……マイペースだよね、君」
 「?」
 それとも不器用とでも云おうか。……単に強引なだけか?
 すぐに興味なさそうに窓の外へと視線を遣る娘の後ろで、男は溜め息をつく。やれやれ、ホントに漢らしいや。もうちょっと乙女でも可愛いのになあ。……まあ、今のままでも面白いからいいけれど。
 「さて、と。そういうことで、リディ。ゆっくりお休み」
 強制的にベッドに載せられた少年は「お言葉に甘えて……」と言うと二人に背を向けて身体を休めることにした。しかし、頭は休息を拒絶する。いくらでも考えなければならないことがあった。
 仕方なく、本当に仕方なく今この場に居るが、この二人は世にも恐ろしい罪を犯そうとした者たちだ。今朝早く、何をしたかを訊いたときには動転してしまってあまり意味のある抗議は出来なかったが(それに全く聞いてもらえていなかったが)、神学生……元・神学生としてはもう一度しっかり抗議すべきだろう。ちょっと、怖いけれど。
 しかし、リディウスは元々聡明な子供であった。昨夜の出来事を反芻すると、どうも単純に踏み込んではいけない領域であるようにも思う。
 昨晩、彼らが自分を巻き込んだのはどうしても納得できないし、考えると腹が立つけれど、命を助けてくれたのも事実だ。今朝だって、疲れて寝込んでしまった自分を捨てる事無く、負ぶって運んでくれた。自分など、捨てていった方が確実に彼らには有利なのに。責任をとる、という言葉を実行してくれようとしているのだろうか。だとすれば、そのように一応は礼を持った人間が世にも恐ろしい罪を犯そうというからには、よっぽどの深い訳があるに違いない。
 そして思い当たることがあった。昨夜の、団長と彼らの会話だ。リディウスが推察するところ―――信じたくはないが―――法王の関係者が、あのシンと名乗る少年の一族をどうにかしたのだろう。……どうにか、なんて逃げてはいけない。恐らく、殺したのだろう……エルレス教の教えでは、人を殺すことは大いなる罪だ。たとえ異教徒であっても、真実の神であるエルレスの神の御心を教え導き、正すことが神官には望まれる。だから絶対に信じたくは無い。信じたくは無いのだが……昨夜の、あの警備団の言動は……自分をも殺そうとしたあの態度は……
 首都で学問に励む純粋な少年は、知らなかった。人を殺すこと・傷付けることを罪とする故に、異教徒を「人」ではなく「悪魔」と呼び貶めることで、世界各地で如何なる迫害をも正当化している現実を。
 思い悩む少年の向こうで、シンとジズは進路と装備品の確認を始めていた。インチェという町に行くまでには、砂漠を渡ることを考えて、シンとジズだけなら七日、リディウスを連れてなら十日ほど見積もっておかねばなるまい。更に追っ手が掛かっていることを考えると、うかつに付近の町には寄れない。装備品が不足する危険を考えると、思ったよりは進めないかもしれない。
 だがインチェに着けさえすれば、とりあえずは一旦態勢を整えることができる。インチェは所謂「治外法権」とでも言うべき町で、エルレス教の力はそれほど及んではいない。砂漠の中という厳しい環境のおかげで、そういう点では自由であった。故に、お尋ね者が数多く流れ着くし、彼らを相手にする商売もまかり通っている。シンが荷物を預けたのもそういう手合いだ。金さえ払えば確実に荷物を保管してくれるが、期限を過ぎるとすべて店のものになる。インチェの預かり所といえば、盗賊などによく利用されている店として有名だ。店主も客もいかがわしいが、流れ者に好評な店ほど信用がおける、というのは旅人の常識であった。
 不思議なもので、シンとジズの経験上、インチェは他のどの町よりも安心できる場所であった。教会からの監視もなく、厳しい環境で生きていくため、人間同士の助け合いが暗黙の了解となっている。流れ者同士お互いに関わらないのがルールとして確立している上に、砂嵐などのいざという時には助け合うのだ。堂々と表を歩けない人間にとって、環境(年に数十人は砂嵐や流砂、砂漠病で死ぬ)を除けばこれほど気楽な所もあるまい。事実、住み着くものも多い。
 シンと計画を練っていたがジズだが、突然、あ、と楽しそうに思いつきを口にする。
 「ねえ、いっそのこと、インチェに住んじゃう?」
 「世迷い事を」
 一蹴。
 そうだよねえ、やっぱり。すぐにまた復讐に戻るんだろうなあ……
 「それより……インチェからは、お前はどうする?」
 我はリディウスを故郷に送るが、と付け足して、シンが訊ねた。
 「何言ってんの」
 純粋にびっくりして訊き返すと、相手もびっくりしたようだ。
 「何、とは……そのままの、意味、だが……」
 云い澱むシンの顔を「綺麗だなあ」と頭の片隅で思いながら、ジズは自分の言動を思い返す。
 「……あ。ごめん。そっか、そうだよね」
 「???」
 あはは、とジズは頭を掻いた。
 「言うの忘れてたや」
 自分の中ではもう、ごく自然に決定事項だったけれど。
 「俺、付き合うから。最後まで」
 そう、最後まで。シンが目的を果たすか、その命が果てるまで。目的を諦める、という選択肢は、この娘には在りそうにないから。
 「……おい」
 「何言っても無駄だよ。決めたんだから」
 にこにこと笑いながら、シンと同じことを言う。
 「……お前のことだ、飽きるまでついてくるんだろうな」
 「お?だいぶ俺のことわかってくれてるじゃない」
 言われた方は溜め息をつくしかない。
 「全く……人生を無駄遣いするものではないぞ」
 シンにだけは言われたくない台詞かもしれないが、ジズは自信ありげに胸を張った。
 「無駄じゃないよ。ヒマな方が無駄だ」
 そう。ジズ・ムラサメは何より暇を嫌う暇人なのだ。
 「さぁさ、計画を立てよう。インチェまでに村は二つ、町は一つ。食料とか、揃えなくちゃね」
 楽しそうに男は笑う。……何がそんなに楽しいのか。
 「リディウスの装備を整えねばな」
 呆れながら、しかしその明るさにどこかしら救われながら、シンもとりあえず目の前の問題に向き合うことにした。

 

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