走り出した。
 心が急かすままに。
 思うように走れない。足がもつれる。いつもならもっと速く走れるのに。
 心臓の音がやけに気になる。あの丘はまだ遠い。何故、何故近づかない!?
 黒煙が見える。あれは、なにか、違う。生活で出るものではない、そう思う。
 そして娘は、己の直感に自信があった。

 丘の上に立った。眼前を見下ろした。
 信じたくは、なかった。
 なんだ、これは。なんなのだ。
 遥か下方に、見慣れた集落がある……はずだった。
 だが、そこに在るのは娘の見慣れた光景ではなかった。
 焔、煙、怒号、悲鳴。
 遠くからでも解る……これは、なんなのだ。
 竦んだ足を無理に動かす。駆け下りねば、ここを。早く、帰らねば!!
 足がもつれた。丘を転げ落ちた。すぐに立ち上がり、汚れも気にせず走り続けた。花篭は、壊れた。拾わずに、走った。花を踏みしだき、前のみを見て、走る。長い、銀の髪が翻る。風を受けて、広がる。
 ―父上!母上!……!!
 知らず、家族を呼ぶ。声が届く距離ではない。だが、叫ばずには居られなかった。
 まだ、遠い。まだか、まだなのか!
 娘とは反対側の方向に、幾十もの騎馬が去っていくのが見える。小指の先程の大きさでしか見えないが、娘の眼は馬上の人影を捉える。皆、黒尽くめだ。
 集落に辿り着いた。
 いや、集落だった場所に辿り着いた。
 そこは、もはや地獄だった。
 娘の一族が作る、簡素な仮住まい。その全てが壊れ、燃やされていた。どれほどの火力で焼かれたのだろう、もう炭と化しているものもある。
 至る所には、人。人であったモノ。黒尽くめの者も、幾人か居た。
 その全ては、動くことはなかった。
 ―叔父上!伯母上!……っ、レイン!アイザック!クライス!
 倒れている一族を一人一人抱き起こし名を呼ぶが、返事を返してくれる者は居ない。
 ―!!……はは、うえ……?父上……?
 集落の中央に、祝いのための準備だろう、大きなテーブルがあった。その近くに、お互いをかばいあうように抱き合って倒れる二人が居る。……血溜まりの中に。
 恐る恐る近寄るが、
 ―……あぁ……
 動かない。動いてはくれない。
 娘は二人に取りすがり、声も無く泣いた。しかし、
 ―……!何処だ、……!!
 娘は涙も拭かずに立ち上がると、弟の名を呼ぶ。だが、返事はない。
 娘は自分の住んでいた家の方へ走った。炭と化した我が家。
 ―!!!
 黒く、小さな物体があった。小さな、と思ったのは、どこかでそれが「人にしては」、と解っていたからだ。
 ―……?
 震える声で、名を呼ぶ。
 足が、自分のものではないように重い。
 その物体の前に跪いた。
 人のカタチをしていた。
 その額辺りに、娘とお揃いの装飾品が輝いていた。

 雨が、降り始めた。


 「シン、大丈夫?」
 ひょい、といきなり黒髪の男が顔を覗き込んでくる。えらく至近距離だ。思わず体が反応してその顔をはたき落とす。べち、と音がした。
 「あ……すまん」
 はた、と気が付いたが、今は移動中。夜の街道を、近くの村まで。
 「いや、もう、なんか慣れたからイイけどさ……」
 少し涙目になりながらジズは己の顔面をさすった。
 「珍しいな、君がぼぅっとしてるの。大丈夫?気分悪い?」
 この男、意外と細かにシンとリディウスを見ている。
 「やっぱり疲れてるんじゃないか?ふふ、おんぶしたげよか?」
 「要らん。……大丈夫だ、すまない。考え事をしていた」
 からかうような、楽しそうなジズの申し出をにべも無く断って、シンは軽く頭を振った。無言のまま移動していたが、その所為で少し頭が余計に廻ったようだ。
 (いかんな。こんなに気を抜いていては……少し、疲れたか?)
 実際、隙も可愛げも無いシンがあれほど至近距離にジズの接近を許したこと自体、異常なのだ。身体は疲れを認識していないが、心は……疲れたのかもしれない。昨日だ。二年の努力が水泡と帰したのは。
 誰がやったのか、それを突き止めるだけでもだいぶ手間が掛かった。騙されたことも多い。路銀が底をつきかけたことも度々あったが、下卑た笑いを浮かべる男たちが持ちかける、意に染まぬ仕事は矜持が許さなかった(第一、その男たちは決まって彼女を「彼」だと思った上でやってくる。失礼極まりない)。稼ぐといえば荒事ばかり。洒落にならないような怪我も、命の取り合いも、幾度も経験した。愛する家族と繋いでいたその手は、血で汚れた。
 また思考が余計に働き出したのに気付き、頭を振る。と、視界に何か足りないのに気付いた。
 「?リディウスは?」
 「あ」
 二人同時に振り返ると、やや後方でリディウスは一生懸命早足でついてきていた。
 「君が黙ったままズンズン進んじゃうんだもん。置いてきちゃった」
 「それはすまなかったな」
 少年が追いつくのを待って、今度は少しゆっくりした足取りで歩き始める。リディウスの足は、長い距離を歩くことを知らない。神学校の白い靴も、元々機能的とは言えない代物だ。マメや靴擦れを起こしているに違いないが、言ってもどうしようもないことだと分かっているのだろう、本人は我慢している。それにリディウスとしては、シンとジズが居なければ、これから自分が生きていけないことを充分に自覚している。自分が、お荷物であることも。だから少しでも役に立とうと、迷惑を掛けまいと努力しているのだ。
 「もうすぐ村だよ、リディ。食べ物とか水とか揃えようね」
 ジズはなにかしらリディウスに話し掛ける。心遣いもあるにはあるのだろうが、単に話し好きということが大きな理由であろう。シンに無駄口を叩いても一蹴されるのがオチだが、真面目な少年は何を言っても真剣に聞いてくれるのでからかい甲斐……いや、話し甲斐がある。
 「はい。……あの、お金は?」
 その真面目な少年は、手持ちが殆ど無かった。不安そうに尋ねる彼に、無駄に全開の笑顔を披露しながらジズは自信満々、言う。
 「大丈夫!シンが持ってるよ。ね?」
 懐が寂しいので、最初(はな)からシンに頼ろうと思っているこの男とは対照的に
 「宿に泊まる余裕はないがな」
 元々シンは他の二人に頼ろうという気がないため、ある程度の金を残していた。
 「え……」
 しかしリディウスは戸惑う。宿に泊まる金が無い、ということは、今朝方利用したような小屋がなかったら……
 「ねえ、毛布かなんか買おうよ。この辺、夜冷えるし。焚き火の燃料も」
 「そうだな。安ければ考えよう」
 リディウスは考えたくない野宿を、二人は当然の前提として考えていた。……ならば、文句を言うわけにはいかない……
 「あ、ほらほら!」
 何かを話しながらもすぐまた別のことに目が行くジズが、楽しそうに右前方を指差した。リディウスはつられてそちらに視線を遣る。
 「あ!」
 その眼に、村が見えてきた。

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