そして朝。
シンは空を見上げて眉をひそめた。快晴だが、それが「良い」天気であるとは限らない。
とりあえず朝食を終えた後、それぞれ身支度に取り掛かった。
「あの、砂漠で気をつけることってあります?」
心配性の少年が装備を確認していると、
「色々あるけど、ま、その都度教えたげるよ。気楽に……」
と適当な大人は応えたが、
「覚悟は良いか?砂漠は辛いぞ」
冷静な娘が現実を告げる。
「う」
シンは嘘を吐かない。それを知っているリディウスは当然不安になったが、己を鼓舞するために薄い胸を張った。
「大丈夫です!神のご加護が……」
言った瞬間、冷めた蒼い瞳で見られて一瞬ひるむ。が、真っ直ぐに視線を返す。
「……きっと、あります」
シンはじっと相手を見つめていたが、リディウスは少し怯えながらも視線を外さない。
「……まだ、信じられるのだな」
「はい」
「……そうか」
シンは「神」など嫌いだ。存在しないと思っているし、そのくせにそれを信じる信じないで争いの種を撒き散らす厄介なものだとすら思っている。だが、リディウスが信じることによって救われているのなら、それはそれでよい、と思う。それが何であれ、「気休め」は有ったほうが良いだろう……
「ならば、せいぜい祈るがいい。砂漠は『神』の与り知らぬ領域やも知れんぞ?」
全知全能の神は……と反論しそうになる少年を何気なく遮って、ジズは笑った。
「イイね。そしたら自由に好き勝手できそうだ。ま、どっちにしろ俺は砂漠旅行できてラッキーだな。ハードな分、退屈しないしね」
「お前にかかれば何でも幸運だろう」
「……何か俺、よっぽどおめでたい人間みたいだね?」
「違うのか?」
「言うねえ……ま、いっか。ポジティブってことだよな」
やはり、と思うシンを横目に、ジズは鼻歌交じりに装備を整え始めた。シンも溜め息をついて荷物を確認し始める。リディウスは、すっきりしない気持ちを抱える反面、シンを相手に「神」を説かずに済んで安堵もしていた。ここで気まずくなっても、良いことはない。
(父なる神よ、どうかお守りください)
エルレス教独自の動作で祈りを捧げ、彼は砂漠へと踏みだした。
神は本当に居ない。
シンは砂漠の中で改めて思った。
「うわあ……これは見事な……」
ジズも言葉を継げない。
「……」
横で少年も血の気と言葉を失っている。
砂漠を旅するものが何よりも遭いたくないモノ。それは砂賊でも毒蟲でもなく、今シンたちの目の前に現れたモノ。
「……砂嵐か。厄介だな」
巨大な竜巻が遠くに確認できる。確かにまだかなり遠くにあるのだが、その移動速度は凄まじく速いため、ここまで来るのに僅かな時間しかかからない。回避する時間も後退する意味も無いだろう。この砂漠で巻き起こる砂嵐は、いつも突発的だ。砂漠を熟知している砂賊でさえ、その発生を完全に予測することは出来ない。
「荷を身体に固定しろ。リディウス、こちらに来い」
シンはてきぱきと自分の荷物を身体に縛り付け、リディウスをぐいと引き寄せた。ジズが羨ましそうな顔をしているのは見なかった。
「服の袖を縛れ。口と鼻も覆え」
あたふたと指示に従う少年を手伝いながら、シンはちらりと竜巻に目を遣った。近い。風の強さも激しさを増してきた。
「伏せろ」
と、言うよりも早く押さえつけて伏せさせているのだが、流石に誰も突っ込まない。
「目を閉じておけ。耳も隠せ。顔を上げるなよ」
リディウスに覆い被さるようにしてシンも地に伏せた。確認するまでも無く、すぐ横でジズも準備を終えている。
「来るぞ!」
口を覆っているためくぐもった、しかし何故か楽しそうな男の声を合図に、三人は顔を伏せ、地面に己を繋ぎ止めることに専念する。
直後、世界は暴風と轟音に包まれた。
「っ……!」
風に弄られて服の裾が身体を叩く。碌に息も出来ない。シンは、小さくなっているリディウスを抱く手に力を込めた。腕の中のものを、守りたいと思う。今度こそ。
しかし、あまりにも無情に嵐は人間を襲う。激しい風に、ともすれば身体ごともっていかれそうになる。
そういえば、と、妙に冷静な頭でシンは思い出した。ずっと昔、砂漠付近を移動していて砂嵐に遭遇したときには、幼い自分を両親が守ってくれた。力強く、抱いていてくれた。あの腕の温かさと、包み込まれているという安心に、幼い自分は随分と救われたものだった。
それに比べて、今の自分はなんと小さいのだろう。
ぎり、と歯を噛み締める彼女の体を、突如、リディウスごと何かが抱え込んだ。力強く。
「!?」
ジズだ。
流石に口は開かないが、彼女の肩の辺りをぽんぽんと叩く。
「……」
これが普通のこの年頃の娘であれば、ときめきの一つでも覚えたのかもしれない。が、生憎シンにはそんな色気など無かった。
子供扱いされて何やら口惜しい。自分にはない余裕を見せ付けられて更に口惜しい。……そんなことを思う辺りやはり子供なのだが、彼女はそこまでは考えない。
そんな心の内を知ることも無く、ジズは砂の中でにんまりと笑った。
なんか俺、お父さんみたいじゃない?ん?お兄ちゃん?
やがてそれぞれの思いを風と砂に閉じ込めて、嵐は過ぎ去った。
「うわあ、髪が砂だらけ!」
ジズは元気良く立ち上がると、犬のように頭を振って、次いでこれもまた犬が後足で耳の後ろを掻くように、手でがしがしと頭の砂を払い落とした。シンとリディウスも立ち上がると、荷物を確認し、身体に付いた砂を払う。
「無事か?」
「はい」
初めて体験する砂嵐のインパクトは相当のものだったが、リディウスは気丈にも微笑みながら応えた。実はまだ、握り締めた手は震えている。だが、過ぎたことだ。二人に余計な心配はかけまい。
「ありがとうございました。お二人とも」
「気にするな」
「イイよイイよ〜」
元気そうな二人をみて、またほっとする。
ああ、皆無事で良かった。
神よ、感謝します。
「さて……!?」
くるりと進行方向へ向き直ったジズは、そこで固まった。そちらに視線を遣った他の二人も思わず硬直する。
砂嵐の後ろを進んできていたのだろう。それまでは確認できなかったのだが、降り注ぐ陽の光と共にそれは現れた。
巨大な、巨大な船。一目で、砂賊の乗る砂船だと解る。
「……うわあ……」
「……うっわあ……」
リディウスの驚嘆と、ジズのイヤそうな声が重なった。
「惚けている場合か。撥ねられるぞ」
ゆっくりとはいえ、船はこちらに向かっている。シンはさっさと船から距離を置こうとしたが、船は彼らの目の前で停止した。砂上を渡る船は、砂の侵入を防ぐために甲板は半球状になっている。そのてっぺんに、人影が現れた。逆光で顔は見えないが、
「ねえ、坊やたち!大丈夫〜?」
朗らかな女の声だ。
「……あら?」
女は何に気付いたのか、一気になだらかな甲板を滑り降りた。少し離れた船体の横に着地する。リディウスはびくり、と強張ったが、シンは落ち着いている。元々砂賊は大きな商船しか狙わないし、実際は商船側も砂賊に出遭ったときのために差し出す分の金品を用意している。権力側としては許しがたい賊行為を行っているということで、都市に住む者には悪いイメージでしか教えられていないが、個人単位で旅をする旅人たちにとっては砂賊は気のいい連中である。確かに荒くれ者は多いが、誰よりも砂漠を知っているが故に、砂漠で困っている者があれば救助してくれる。砂「賊」は砂「族」。砂と生きるもの。彼らが誇らしげによく口にする台詞である。
要するに、今自分たちに賞金が懸けられてさえいなければ大丈夫だ。そう思うシンの横で、ジズは何故だか妙にそわそわしていた。女の声を聞いてから特に。
「ああ!やっぱり〜!」
女が走ってきた。緩く波打つ豊かな黒髪を躍らせ、ぶんぶんと千切れんばかりに手を振り、楽しそうに笑いながらやってくる。その雰囲気といい笑顔といい、誰かに良く似ている……
「ジズじゃない!お久しぶり!」
「……ラシャ……」
引きつった笑みを浮かべる男とは対照的に、女は太陽のような笑みを浮かべた。