ジズもまた、ぼぅっと海を見ていた。桟橋に腰掛けて、意味も無く足先で水面を引っ掻いている。
(あ〜あ、やんなっちゃう)
人の信念を傷付けてしまう内容の話を、した。それが例え、彼の知る限り「真実」であっても。相手にせがまれたにしても。
(でも、誤魔化しちゃイケナイことだからなあ……シンに話せっていうのも、無理だし)
それは酷だしリディウスと言い合いになりかねない。
(……損な役回りだ)
彼は桟橋に寝そべった。ああ、空も青い。
(ま、なんとかなるよね〜。リディ、強いコだから)
考えることを放棄して、彼は目を閉じた。
海鳥の鳴く声と波の音。それを子守唄に、うとうと。
ああ、ずぅっと、こんなにのんびりまったりしていられたらイイのに。
そんなことをぼんやりと思う。暇が何より大嫌いで、もし実際にそんなことになったら絶対に耐えられないくせに。気分に忠実な男だ。
(皆さ、色々考えすぎなんだよね。空も海もこんなに広くて青いのにさ)
ごろりと寝返りを打つ。太陽が暖かい。
(まあ、シンは考えなさ過ぎかも。目標しか決めてないもんな、あのコ。手段は俺が考えてあげなきゃな)
くすり、と笑った。傍からみれば、幸せな夢を見ているかのようだ。しかし、
(シン、か……)
少し、眉根を寄せる。あの娘と居ることを、『身内』は皆、手放しには喜んでくれない。シンを見てるとあんなに楽しいのに。いや、あんなに楽しいから、か。
(……ラシャも兄も、心配しすぎだよ。俺、思ってるより大人なのに)
二人の気持ちも優しさも分かる。だが、彼は自衛策も知っている。傷付く前に逃げることを、覚えた。「自分」を隠すことも。
不意に、彼は波の音に違うものを感じ、上体を起こした。沖の方に目を遣ると、やや遠方に小舟が。シンとタタンの乗った舟だ。彼の目が輝く。
「お〜い!!」
立ち上がって大声を上げながら両手を振ると、背の高い人物が手を振り返してくれた。タタンだ。
「戻ってきた戻ってきた」
歌うように呟いて、ジズは桟橋を走った。桟橋の端ぎりぎりまで全力疾走して、急停止。バランスを崩して海に落っこちそうになるけれど、ぐっと踏みとどまる。そのまま大きく両手を振って二人の帰還を待つ。大好きな二人がどんどん近づいてくる。
(っていうかシン、ずるいよね!タタン兄独り占めでさ!ていうかタタン兄もずるい!シンを独り占めしてさ!)
そんなことを素直に考える男だから、彼の中に「大人」が確かに居るにせよ、「子供」が同居していることも否めないのである。
小屋に戻ると、リディウスはシンやタタンに気を遣わせないように「普段通り」を心掛けていた。ぎこちない笑顔とややはしゃぎすぎな態度になってしまっていたのだが、ジズが密かにフォローして誤魔化す。
その夜、少年は聖典を抱いて寝た。何かに怯えるかのように、丸まって。
だが、眠れないのは分かっていた。
結局、あまりの居心地のよさに、シンたちは計五日もタタンの世話になってしまった。ジズとしては「もっとお世話して」という気がないでもないが、タタンもそろそろこの町を出ねば、インチェに着くのが満月の日に間に合わなくなる。新婚さんの逢瀬を邪魔するのは無粋だろう。
出立の準備を整えて、三人は小屋を出た。外では、同じく旅の準備と町の人たちへの挨拶を済ませたタタンが待っている。町の入り口まではタタンも同行することになっていた。その短い距離をずっと彼にまとわりつくように歩くジズは見るからに寂しそうだが、子供たちも実は寂しい。砂族と別れるのとはまた違う気分だ。リディウスはもう充分にジズの心情を理解できていた。タタンには、甘えていたい雰囲気がある。
「貴方には、随分世話になったな」
「いや、こちらこそ。楽しかったよ」
シンは「甘え」という感情からは程遠いところに居るが、それでもタタンには感じるところがあるのだろう。彼より年上に見える、しかも砂族の長であるギルバに対してすら「お前」呼ばわりだったのだが、彼には「貴方」と呼びかける。リディウスの知るところ、彼女が老人以外にその呼び方を使うのはタタンだけだ。
「タタン兄、またね。ラシャによろしく」
「うん」
「タタンさん、お世話になりました。本当にありがとうございました」
「うん」
にこやかに笑っていたタタンだが、いざ町の外れに来てみると、口元が泣きそうに歪んだ。彼も寂しいのだ。そんな顔をされると三人もその場を離れがたいのだが、タタンはぐっと堪えてまた笑顔を取り戻す。険しい旅路を往く者に、餞の言葉をかけねば。
「シンくん、体に気を付けてな。武運を、祈るよ」
「ああ。感謝する」
「リディウスくん。諦めないように。いつか必ず、またご両親に逢えるから」
「あ、ありがとうございます!」
「ジズ……」
ぽん、と彼ははとこの頭に手を置いた。
「またな。次に逢うときも、どうか笑顔で」
「うん。兄もラシャとお幸せに」
タタンはまた微笑む。
「じゃあ、皆、どうか元気で。朗報を楽しみにしているから」
三人は彼に見送られて、また新しい一歩を踏み出した。
南へ、街道を使って移動する予定の彼と違い、三人は東へ、山道を進む。
「……」
何度もこちらを振り返って手を振るジズも見えなくなった。タタンは寂しそうに、振り返していた手を下ろす。
「おや、タタンさん。もう、この町を出るのかね」
急に掛けられた声に振り返ると、町へ入ろうとしている老漁師だった。滲んできていた涙を、目を瞬かせることで誤魔化して、彼は会釈した。
「はい、お世話になりました」
「いやいや、ワシらの方がよっぽど世話になったよ。しかし、寂しくなるなあ」
「すいません……」
「ははは。謝ることはないだろう。また顔を見せにきておくれよ。……ところで、さっき出てったあのコたちに、あんたと同じ黒髪黒目の若者がおったが」
老人はシンたちの去っていった方角をみる。
「親戚かい?」
「はい。はとこです」
「ああ、成る程。はとこか」
老人は、町で何度か彼とジズが一緒に居るところを見ている。何かを怪しんでいたのだろうが、はとこ、と聞いて少し安心したようだ。
「弟みたいで、可愛いもんだろう」
「はい!」
タタンは笑顔で応えた。
「百も歳が離れていると、何時までも子供のような気がして」
ついつい甘やかしてしまうんですよね、と笑う彼の屈託の無さに、老人はその発言の異常性を見過ごしてしまった。
ちなみにタタンは、嘘は吐かない。