砂漠の街で新婚夫婦が再会を果たしていた頃、シンたち三人は爽やかな緑の中を進んでいた。木漏れ日が煌き空気は澄んでいる。小川のせせらぎと小鳥のさえずりが耳に心地よい。
 だが、それを心底楽しんでいるのはジズのみ。シンは黙々と進み、リディウスはここ最近ずっとだが、考え事をしながら歩いている。
 「気持ちイイねえ〜。空気がこう、ね?美味しいよ」
 ジズの言葉にもシンが微かに頷くのみ。タタンと別れて以来のこの数日、リディウスが口を開くことが殆どない。
 「ね、まだ食料は余裕あるけど、この森でも何か拾ってこうよ。木の実とか。やっぱ味に変化が欲しいじゃない?干物ばっかりだと滅入っちゃうもんなあ。口渇くし」
 「そうだな」
 「ね?リディ?」
 「え?……あ、は、はい」
 時々思い出したようにジズが声を掛けなければ、少年は下ばかり向いている。男には思い当たる節があるのだが、どうすることもできない。ちなみに娘はこの変化自体に明確には気付いていない。彼女の中でその辺は「普段からよく喋るか否か」で決まるようだ。
 「この辺りの植物はねえ、毒を持ってるのが少ないんだ。だから結構何喰っても平気だとは思うんだけど……」
 ジズがそこまで言った時だった。
 「……!……!!」
 何処か、あまり離れていない場所から、突如として女の声。よくは聞き取れないが、助けを求めていることは、その切迫した様子から容易く分かる。
 最初に反応したのはジズだった。
 何も言わずにその方向へ駆け出す。
 シンも一瞬遅れて足を踏み出したが、一度振り返り、
 「リディウス!ついてこい!」
 少年に声をかけて、また走り出した。少年も頷いて走り出す。どちらかと言うとシンとジズの反応が逆に思えるのだが、それは声の主が恐らく、ほぼ確実に、女性だからであろう。

 (誰か……!!!)
 もつれそうになる足を必死で動かして、彼女は山道を走っていた。もう長いことこの山に住んでいるが、こんな状況は初めてだった。
 走りながら振り返ると、追跡者たちは変わらずそこに居る。一定の距離を保ち、彼女が足を止めるのを待っている。
 「やだ……やだぁ!」
 半分泣きながら彼女は走り続ける。服の裾はあちこちぼろぼろになった。ぎゅっと籠の取っ手を握り締めていたが、その籠の中に入れていた木の実は、殆ど零れてなくなっている。
 走らなくては。逃げなくては。
 追跡者の息遣いが聴こえてくる。二本の脚で走る彼女に比べ、彼らは四本の脚で走る。追いつかれるのは時間の問題……ではなく、彼らは何時でも追いつけるのだ。ただ、そうはしない。
 あの野犬たちは、獲物を追い詰めて、疲れるのを待って襲い掛かるのだ。
 逃げなくては。逃げ切らなくては。
 でも……何処へ?「家」まで?
 いや、「家族」に迷惑が掛かる。「家」には、武器らしい武器も、大人の男性も居ない。
 では……何処へ?
 「あっ!」
 彼女の迷いが足運びに影響を及ぼしたのだろうか。木の根に足をとられた。たたらを踏んでなんとか堪えようとするが、無駄だった。前に転ぶ。
 「いや、いやだ……!!」
 手で土を掻き毟るように必死で這いずり、大きな木の根元まで辿り着く。木の幹で背中を庇うようにして追跡者の方を振り返ると、
 「ひ……っ!!」
 こんなに多かっただろうか。十匹は、居る。獲物が逃げられなくなったのを確信して、ゆっくりと近づいてくる。あの牙は、あの爪は、間違いなく自分を引き裂こうとしている。
 「だ、誰か……!」
 声が擦れる。こんな山奥に誰も居ないことは、ここに住んでいる彼女はよく知っている。だが、助けを呼ばずには居られない。
 「誰かぁ……!」
 思うように声が出ない。呟き程度の音量しか伴っていない。それでも、彼女はぎゅっと目を瞑ると、もう一度精一杯叫んだ。
 「誰か……!誰か助けてーーー!!」
 
 キャイン!
 高い悲鳴が響いた。
 無論、自分の喉から出たものではない。
 「え……?」
 恐る恐る目を開けると、飛び込んできたのは若い男の背中。その背が、自分と、野犬たちの間に立ち塞がっている。
 「え?」
 やはり状況が掴めなくて、彼女は瞬きをした。野犬が、数匹うずくまっている。男が手にした鞭で打ち据えたのだが、彼女はよく分かっていない。
 「シン!」
 男の声が響くと、
 「分かっている」
 彼女の背後から、静かな、中性的な声が応え、やや離れた位置に居た野犬がまた数匹、倒れた。ナイフが刺さっている。
 残った野犬たちは、じり、と後ずさり始めた。ただ呆然と事態を眺めることしか出来ない彼女の前で、男は手にした鞭で地面を打つ。それを合図に、追跡者たちは一斉に逃げ出した。
 「もう、大丈夫だからね。お嬢……ちゃん」
 長い鞭を一振りでまとめて手に戻し、黒髪の男は笑顔で振り返った。
 「あ……」
 彼女はやっと、我に返った。同時に、体中の力が抜けてしまう。
 「よしよし、怖かったね」
 男がしゃがみこんで彼女の頭を撫でた。彼女の中で、堪えていた何かが溢れ出す。目の前の男に抱きつくと、大声を上げて泣きじゃくり始めてしまった。
 「ああ、よく頑張った」
 背中を優しく叩く男の手に安心を覚えながら、彼女は暫く泣き続けた。
 まだ11の少女なのだ。仕方ないだろう。

 ちなみに、彼女を優しくなだめながら「せめてあと5、6歳くらい育ってれば、もうちょっと嬉しいんだけどなあ」、と思うジズは、違う意味で仕方がない男である。

 彼女の名はフュレイラという。この山奥の「家」に、「家族」と共に住んでいるらしい。彼女は今、白い服を着た麗人の両腕に抱きかかえられている。転んだときに足を挫いてしまっていたため、シンたちは彼女を家まで送ることにしたのだった。時折麗人の顔を見上げては、頬を紅くして急いで目を逸らす、を繰り返していた。
 少女が足を痛めていることに気付いたシンが有無を言わさず彼女を抱きかかえたときには、当然ジズが代わりを申し出たのだが、「お前は犬を運べ。毛皮と肉とナイフを無駄にしたくない」との冷静なお言葉で引き下がった。柔らかい少女の替わりに血の滴る野犬の死体を数匹、肩に担いでやや不満げである。後ろでリディウスも野犬を一匹、抱えて運んでいた。
 「そうそう、フューリー。この辺りで、物騒な噂とか聞かない?」
 彼女が「もうすぐです」と言った後、ジズが何気なく聞く。勿論、彼らは逃亡者の身なので、その辺りを探っておかねばならないからだ。
 「いいえ?特に何も」
 「そう?街の話は聞こえてこないの?」
 「こんな山の中だもの、お客さんも滅多に来ないから……月に一度、お医者様が来てくれるくらいかな。一昨日帰っちゃったんですけど。あ、あと時々交代で買い出しに行くくらい」
 「そうなんだぁ……」
 ちらり、とシンに目を遣ると、彼女もジズを見返して微かに頷いた。少しは安心して良いだろう。
 「あ!あれです!『ウチ』です!」
 シンの腕の中で、フュレイラが嬉しそうな声を上げた。彼女の指差す方向に、白い建物が見える。
 「綺麗だね」
 「うん!……あ、はい!古いけど、素敵なんです」
 数分と経たないうちに、彼らは彼女の「家」の前に着いた。白い壁の、一軒家にしては大きな建物。手入れされた花壇と、畑、家畜小屋も見受けられる。そして横には、また一つ、別の小さな建物。
 「あ……」
 リディウスは気付いてしまった。その建物は、彼の見慣れたもの。つい最近まで、毎日通っていた施設。
 あれは、礼拝堂だ。彼の信じる神の。
 そして急いで周囲を見回した彼は、家の横に掲げられた看板のようなものに気付いた。
 『安らぎの家』
 、と書かれている。ここは……
 「孤児院、か。エルレス教の」
 シンの呟いた正解に、フュレイラ以外は沈黙した。

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