白い刺繍の施されたマントの兵士が言った通り、絵画の裏に隠された部屋で「彼」はジズとリディウス、そして老人たちを待っていた。
「殿下……!」
その姿を見た瞬間、老人たちとリディウスはエルレスの礼をした。「彼」は驚いたものの、キリヤの姿を認めて穏やかに微笑を返す。
「やあ、久しぶりだね」
「遅くなりました。申し訳ございません」
「いいや、謝るのはこちらの方だ。私が至らないばかりに、皆に辛い思いをさせてしまった……」
エルレスの礼で深く頭を下げる「法王」だが、慌ててキリヤはその肩を掴む。
「止めて下さい!そのような……」
「ここで謝らないほど、傲慢になったつもりはないよ」
「ですが……!」
「悪いんだけど」
放って置けばそのまま問答を続けそうな二人を遮るのは、のんびりした若い男の声。ジズである。
「さっさと逃げた方が良くない?その方が被害も少なくて済むと思うんだけど」
「そ、そうですな、そうだ、殿下、早くこちらへ」
老人たちに引っ張られるように出口へ向かう「法王」は、しかし、一度足を止めた。振り返り、ジズを見る。
「こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ない」
そして深く、頭を下げた。エルレス式の礼でないのは、ジズの信じるものに配慮してのことだろう。
「気にしないでよ。俺の好きなようにしただけだし」
それに、本当の目的は、君の弟を殺す手助けをすること。
口に出さず、ジズは微笑むと連れの少年を見た。
「さ、リディ、一緒に護衛するよ」
「はい。……あの、シンさんは……」
「大丈夫」
ジズは自信に満ちた笑顔を見せる。
「シンは負けないよ。俺もすぐ手助けに行くしね」
火は、絨毯を媒体にあっという間に拡がっていった。この館は広大だが、既に二階の半分は橙に染められている。今はまだ物の表面を舐める程度だが、じきに深部まで抉る力を得るだろう。
(……火か。厄介だな)
己の纏う白のローブも橙の影を映しているのを確認して、シンは一旦足を止めた。火は、嫌な記憶を呼び覚ます。だが頭を振ると、冷静に辺りを見渡した。悠長に片っ端から部屋を探す時間はなさそうだ。
では、どうするか。
その時、複数の足音が聞こえてきた。その若さと重さから察するに、兵士たちだろう。シンは物陰に身を潜め、兵士たちの動きに気を配る。一人、慌てて一階に逃げた。一人、必死な形相で二階の更に奥へ向かった。檄を飛ばす者が居た。「殿下をお守りしろ」、と言っているようだ。その者は奥へ向かった。
よし。
娘は不敵に微笑むと、兵士たちの後について奥へと走り出した。焔が、彼女の姿を隠してくれる。
こんなものか。
自室で兵士に護られながら、彼は冷めた頭で考えていた。
上手くやってきたつもりだったが。この程度だったのか、私は。
密かな溜め息を、兵士たちには気付かれないように吐く。老人たちばかり、と聞いて侵略者たちの正体と目的は見当がついていた。
兄さん、貴方の人徳には、どうやら勝てないようだ。
思わず口の端に笑みが上るが、それは自嘲や諦めからではない。喜びと誇らしさから出たものだ。
ならば、私のこんな企みなど、無用だったのかもしれないな。むしろ却って……
「殿下!火の手が上がりました!どうか外へ!」
彼の思考は、焦りを隠さない兵士の声に中断された。
「火……?」
彼の思考は別方向に働き始める。侵略者はもう兄を助けたのだろうか。だから火をかけたのだろうか。私を炙り出すために。それとも、まったくの事故で火が上がったのだろうか。そうならば、兄の身が……
その考えもまた、兵士の悲鳴で中断を余儀なくされた。
「探したぞ……」
悲鳴と怒号に交じって聞こえてくる、静かな声。やや抑え気味の、凛とした声。
(何者だ?)
その声の持ち主に、思い当たる者は居なかった。だが、彼とその者を遮る兵士たちはみるみる減っていく。倒れていく。ある者は眉間に、ある者は喉に、正確に投げられたナイフを突き立てて。
「ほぅ……」
だいぶ視界が開けて、彼は侵入者の姿を目にした
「神託の、か」
「黙れ」
白いローブをなびかせて、侵入者は刺すような殺意を彼に向ける。怒りとも、喜びともとれる無表情で。「それ」は立っていた。
「そんな称号など、要らなかったのだ。我らは、我らだったのだ」
彼を取り巻く兵士たちは、息を呑んだ。
悪魔や死神が居るとすれば、それはまさしく今、彼らの目の前に居る。
どこまでも冷たく、しかし激しく燃える焔を蒼の瞳に宿し。周りの空気が歪むほどの殺気を放って。
だが、ああ―――
なんと美しいのだろう
もう一人、この館には「悪魔」や「死神」と呼ばれる男が居た。
「見つけた」
艶然と、見るものを惑わす笑みを浮かべて。
「見つかっちゃった……」
対峙する老人たちと一人の少年に交じって居る、彼と同じくらいの年頃の男が応えて呟いた。彼はまたうっとりと微笑むと、
「遊ぼう?」
聴くもの総てが思わず頷いてしまいたくなるような声で、誘う。
「……いいよ」
乗り気でない返事をして、ジズは老人たちとリディウスを庇って前に出た。
「ジ、ジズさん……?」
心配そうな少年にいつもの笑顔を向けて、男は低い位置にある空色の頭を撫でる。
「ちょっとね、知り合いなんだ。でね、ちょぉ〜〜〜っと、その、ヤバイお兄さんなんだよ、あいつ。だからね、先に行ってて?」
「でも……」
「君が」
今度は肩を叩く。
「法王を護ってあげてよ。ね?」
待ちきれないように刀の鍔を鳴らしている目の前の麗人に視線を移しながら、ジズは手にした鞭を握り締める。
(ヤだな、ちょっと緊張してるや。俺)
それを誰にも悟られないように本人は気を遣ったつもりだが、
「……はい!どうか、ご無事で!」
男の背中が語ることを、少年は正しく理解できていた。ここに居ては、彼の邪魔になる。目の前の敵は、自分たちを護りながら闘える相手ではないのだ。
「うん、また後で、ね」
振り向かないまま、ジズは優しく微笑んだ。老人たちと少年が慌ただしく去っていくが、目の前のはとこは動こうとはしない。
「あれ?見逃してくれるんだ?」
「お前以外に興味はない」
「…………告白?」
「馬鹿なのは変わらんな」
二人の間に流れるのは、奇妙な緊張感と、親近感。
「しかし久しぶりだな、ジズ」
「うん、そうだね。ああ、こないだラシャとタタン兄に逢ったよ。あの二人結婚してるの、知ってる?」
「知っている。とうとう負けたんだな、兄……」
「うん」
苦笑ともいえる微笑をお互いの顔に浮かべて。一見和やかな雑談。
「……でも、不思議だな。世界にそう何人も居ない『俺たち』が、こうも短期間に遭遇するなんてな」
「別におかしくはあるまい。『私たち』は皆、面白そうな事象に惹かれる……そうだろう?」
「ああ、確かに」
笑いながら、二人の手はそれぞれ自分の武器を握り締める。
「……まだ、そんなものを使っているのか」
シスイの視線は、ジズの持つ鞭に注がれていた。鋼を仕込んでいたりはしない、ただの革の鞭。それは、相手に苦痛を与えるという点では悪くないかもしれない。だが、シスイは知っている。ジズは、相手を殺さないためにそれを己の武器として選んだのだ。
「甘いのも変わらないんだな」
だから、やはり、シスイは目の前の男が嫌いだった。どんな仕打ちを受けても、進んでは相手を殺そうとはしない。へらへらと笑って、誤魔化して、自分だけで何もかも背負い込んで。見ていると説明のつかない苛立ちが湧き上がる。
「優しい男の方がモテるんだよ。それに……なあ、知ってる?」
軽口の後には、哀しげな微笑。
「人って、ね。儚いんだよ」
「よぅく、知っているさ」
シスイは鍔を鳴らして、妖しい微笑で返す。この刀が、人の儚さを何よりもよく知っている。人など、儚くて、脆くて、醜くて、愚か。
シスイの考えることを、ジズはある程度予測できる。だから、彼も目の前の男が嫌いだった。こいつは、自分。人に裏切られて、傷付けられて、それで人を嫌いになるだけになってしまった、自分自身。哀れで、惨めだ。それを思い知らせるから、見ていられなくて、嫌いだ。
でも……
ジズは胸の前で拳を強く握り締める。
「だからね、愛おしいんだ。一生懸命なんだ、みんな。大切にして、あげたいんだ」
人は、儚くて、脆くて、醜くて、愚か。そして……強くて、優しい。今まで出逢った、大切な人の顔が瞼に浮かぶ。
彼らが、俺を、こいつとは違う道に誘ってくれたんだ。……うん。大丈夫。俺は、少なくともあの人たちのこと、大好きだ。
そうして幸せそうに、哀しそうに微笑むはとこへ、苛立たしげにシスイは噛み付く。
「ふん。大切に、といえるのか?暇つぶしの道具にしているのは、私と同じだろう?」
シスイは殺すことで。ジズは共に生きることで。
「そうかもね。でも、殺したくないよ」
「どうせ短い命だ。少しばかり寝るのが早まっても、構わんだろう」
「……見解の相違だな」
「いつものことだ」
「そうだね」
ジズはにっこりと微笑むと、腰を落として鞭を構えた。居合の型だ。シスイも同じく、刀を居合の型で構える。緊迫していく空気の中、ジズは何を思いついたのか、意地の悪い笑顔。
「でもさ、シスイ。お前があんな顔して『遊ぼう』って云うときって、昔っから何か哀しいことがあった後だよね」
「……」
むっとした表情は、正解の証。ジズの脳裏に、あのぶっきらぼうな娘が浮かぶ。あの娘の反応にあまり違和感を感じなかったのは、このはとこのせいだろうか?
「酷いコト云ってみても、やっぱり誰か信じて、巧くいかなかったんだろ?何だかんだ云ってお前も寂しがり屋さんなんだよね」
「……五月蝿い」
やはり、シスイは目の前の男が大嫌いだった。何でもお見通し、という余裕が嫌いだ。
ちなみに。
無意識だが、彼は云われたことに対して否定はしていないのである。