●孤狐堂謹製 万年筆●
万年筆、というのは、一種の憧れである。中学生でそんな、どこか高級な感じのする文具を使っているヤツは滅多に居ない。少なくとも、タツヤの周りでは。
ヒトミが万年筆を使い出したのは、つい最近の事である。それまでは1本100円程度の普通のペンを使っていたヒトミが、ある日急に、黒光りするオシャレな万年筆を使い始めた。それだけでもう、クラス中の話題を独り占めである。皆が皆、よってたかって「これ、どうしたの?」、「幾ら位するの?」、「万年筆ってどんなんなってんだ?」等、興味津々に尋ねてくる。その度に、恥ずかしがりやのヒトミは小さな声で
「親戚のおじさんにもらったの」
と応えたり、実際に見せてあげたりしていた。
タツヤはハッキリ言って、そんな状態が気に入らなかった。
(ムカつく)
ヒトミが話題の中心になっているのが気に喰わない。
しかし、彼はヒトミに対してムカついているのではない。ヒトミを取り囲むクラスメイト達にムカついているのだ。
(何なんだよヤマモト!ヒトミが押しに弱いのをイイことにこないだ無理やり掃除当番代わらせたクセに!知ってんだぞオレは!イケダ、お前もだ。日直の仕事押し付けやがって・・・んでもってサトシ!!てめえ修学旅行ん時、『やっぱ3年のタケダ先輩だよな〜vああいうなんつーの?大人のオンナっつーの?』って鼻の下伸ばしてただろ!!で、ユウスケ!お前・・・お前もとりあえずムカつく!今までヒトミのイイトコに気付かなかったのがムカつく!!)
最後あたりがもう滅茶苦茶になっているが、本人は気付かない。何を隠そう、タツヤはヒトミにベタ惚れなのである。しかし、本人に自覚はない。
小学生の頃、二人で話していると、周りから「お前ヒトミのこと好きなんだろ〜!」とからかわれた事がある。其の時ヒトミは真っ赤になって俯いていたが、タツヤは慌てて言い返した。
「バカ言え!確かにヒトミは優しいし素直だし、か、可愛いし、良く気の付くいいヤツだし(中略)絵も上手いし読書感想文コンクールで入賞もしたけど・・・ああ、”ヒノウチドコロ”がねえ!!好きだ!大好きだーーーーっっっ!!!」
と男らしく自爆。しかしそれでも本人、「”好き”ってーのは、幼馴染としての”好き”で・・・」と本気で思っている。
二人は隣同士に住む、恥ずかしくなるくらいベタな幼馴染である。二階の自分の部屋から窓越しに「よう」「あ、タツヤくん」など日常茶飯事。登校・下校もいつも一緒。自爆事件の事もあり、すっかり公認されている幸せなカップルなのだが、本人たちだけは「付き合っている」という意識はない。ヒトミに至っては「好きって気づかれたらどうしよう・・・」と悩んでさえいる。結局、どうしようも無いほどお似合いなのだが。
兎に角。タツヤは万年筆目当てでヒトミに群がるクラスメイトにむかっ腹が立っていた。ヒトミはヒトミなのだ。万年筆ごときの付属品ではない。冷静に考えれば、それ程長い間物珍しがられ続ける訳は無いのだが、そんな事はタツヤにとって関係無かった。
「おい。・・・帰るぞ」
我ながら大人気ないとは思いつつも、タツヤはぶっきらぼうに言う。
「あ・・・うん、ちょっと待っててね、スグ準備するから・・・」
人一倍動作に時間の掛かるヒトミが、あたふたと帰り支度を始めた。仕方なく、彼女を取り巻いていた人の輪も崩れる。
「よっ!奥さんが人気で気が気じゃねえな!」
「バカ言え」
野次も気にせず、タツヤは一人で教室のドアへと向かった。後ろから追いかけてくる気配を感じながら。
その二、三日後の事だった。其の日、タツヤはバスケ部に助っ人に行っており、ヒトミは図書委員の仕事があったため、いつもの如く早く終わった方が教室で待つことにしていた。其の日は、ヒトミが先だった。
タツヤは教室にヒトミの姿を見つけると、出来るだけ静かにドアを開け、入る。彼女は机にもたれて寝ている様だった。
「よお。待たせたな」
そっと声を掛けると、ヒトミはゆっくりと体を起こした。
「あ、ううん。帰ろっか」
いつもの様にはにかんだ笑顔で応えるヒトミだったが、タツヤは眉をひそめた。
「おい・・・どうしたんだ?」
「え・・・」
ビクッ、と微かに強張るのを見逃すタツヤではない(ヒトミに関しては)。
「目。・・・赤いぞ」
「・・・」
そのまま俯いてしまう彼女の目は、泣いていたことを雄弁に物語っていた。しばらく、沈黙が続く。
「あ、あのね」
言葉と同時に零れだした新たな涙にドキッとしながらも、タツヤは黙っていた。
「・・・こいつは・・・」
タツヤは、ヒトミから渡された万年筆を見て言葉を詰まらせた。二股に分かれたペン先の片方が、僅かだが欠けている。インク漏れも激しい。ヒトミの両手も、インクを必死に拭きとっていたのであろう、真っ黒に汚れていた。
ヒトミの話によると、図書委員の仕事から帰って来た時にはもうこの状態だったらしい。今日の仕事は本の整理だった為、筆記用具は教室に置いたままだったのだ。恐らく、万年筆に興味のあった誰かが見ている最中に壊してしまったのだろうが、「高い」というイメージもあり、怖くなってそのまま帰ってしまったのだろう。
「どうしよう・・・折角もらったのに・・・」
しかも相当お気に入りだったのを、タツヤは良く知っている。
「泣くなよ」
胸の奥がむかむかしてくる。壊して逃げた誰か、に対してではない。ヒトミが泣いている、という現状にとにかく腹が立っている。どうしてこいつがこんな目に遭わなきゃならないんだ。
「オレが」
ごしごしと目を擦るヒトミを前に、タツヤは思わず口を滑らせた。
「新しいの買ってやる!」
「え?」
きょとん、とする彼女に構わず続ける。勢いで言ってしまったが、男に二言はない、らしいから。
「安モンで我慢しろよ。今、持ち合わせ少ねえから」
ヒトミが万年筆を使いだしてから、密かに文房具屋で値段を見てみた事がある。馬鹿みたいに高いものは高かったが、一番安いヤツは1000円しなかったハズだ。
「あ、タツヤくん、あの、そんな、ダメだよ!タツヤくんの所為じゃないんだし」
あたふたと手を振って断ろうとするヒトミだが、もうタツヤはやる気満々だ。
「いいから!お前、もうスグ誕生日だろ?プレゼントだよ」
ヒトミの誕生日が2ヶ月も先なのはお互いよく分かってはいる。だが、タツヤは何とか口実を作りたかったし、ヒトミはそんなタツヤの心遣いが嬉しかった。
「・・・ありがとう・・・」
顔を真っ赤にして俯きながら、ヒトミは小さな声で応えた。タツヤは満足げに頷く。しかし、
「でも、もうヨーステン、閉まってるよ?」
「あ」
ヨーステンとは、学校の近くにある店で、正式には「陽粋商店」という。色々売っている謎の店で、文房具も取り扱っている。看板に「ヨウスイ商店」と書かれていたのだが、長い年月の所為で「イ」と「商」の文字が消えているため、その様に呼ばれている。
そんな雑学はさておき。現在の時刻はもう7時過ぎ。ヨーステンはとっくに閉まっている。
「・・・街に行こう」
だからといって諦める男ではない。一度火がついたタツヤは本人にさえ止められないのだ。
仕事帰りのサラリーマンに囲まれながらバスに揺られ、二人は街に出た。あまり大きな街ではないが自分たちだけで来ることは滅多になかった為、着いた途端に迷い気味だ。時刻も8時近い。不安がるヒトミを引っ張って、タツヤは文房具店を探す。親には遅くなることを言ってあるものの、流石に限度があろう。とにかく文具屋を・・・と気持ちは焦るが、小さな街だ。既にシャッターの降りた店も多い。
「タツヤくん、もう、帰ろう?」
おどおどするヒトミの手をやや強引に引きつつ、タツヤは足早に歩く。どこか一つくらい文具屋が開いていたって良い筈だ。きょろきょろと辺りを見回していると、うっすらとした明かりが目に入った。
「お・・・」
その明かりの前まで来て、タツヤはニヤっと笑った。ヒトミも、ほっとしたように微笑む。
『文房具 孤狐堂』
やたらと古めかしい看板にそう書かれた小さな店は、街の一角に不釣合いに存在していた。
「・・・ココドウ、かな・・・?」
「さあ?とりあえず、入ってみよう」
心の中で「キツネキツネドウ」と読んでいたタツヤは(彼は”孤”と”狐”を一緒だと勘違いしていた)、古臭い外観にやや気圧されながらも店に足を踏み入れた。
「うわ・・・」
埃っぽい店内は、まるで日なたぼっこをしているかのような柔らかな明るさで、外からは想像もつかないほど広かった。何ともノスタルジックな雰囲気が漂う。店と同じく時代を感じさせる文房具が静かに眠っている様は、まるで博物館のようだ。
「わぁ!素敵・・・!」
年代物のおはじきやらびー玉を見つけて、ヒトミは瞳を輝かせた。彼女は、こういった雰囲気が大好きなのだ。
「そうか・・・なら、良かった」
喜ぶヒトミを見て、タツヤもほっとする。
「万年筆、探そう」
しかし、この店。ぱっと見渡しても筆記具売り場が見当たらない。二人は他のものにも目を奪われつつ、万年筆を求めて奥へと足を進めた。しかし、やっと見つけた筆記具は書道用の筆。女子生徒達に人気のカラーペンはおろか、普通のボールペンすら無い。
「・・・ホントに博物館かよ、ココは・・・」
半ば呆れているタツヤに対して、ヒトミは楽しそうだ。色々と手にとっては感嘆の声を上げている。
「あ!タツヤくん、あれ!」
そんなヒトミが何かを見付けた。彼女の指差す方向へ視線をやると、そこには張り紙が。
『貴方だけの万年筆 あります』
「何だ、有るんじゃん」
ほっとする反面、不安がタツヤを襲う。文脈から察するに、オーダーメイドではなかろうか。だとすれば、流石に1000円程度じゃ済まないだろう。どうしよう。一応値段だけでも訊いてみるか?
「おや・・・いらっしゃい」
色々思案を巡らせるタツヤとヒトミの耳に、突然間延びした声が飛び込んできた。びっくりする二人の前に、声の主は店の奥からゆっくりと姿を現した。
「何をお探しかな?」
この店の主人だろうか、彼は細い目を更に細くして微笑んでいた。意外と若いが、表情からか年寄りにも見える。スラリとした長身で、鼻の頭にちょこんと、小さな丸いレンズの眼鏡が乗っかっている。服は、作務衣だ。
(う、胡散臭え・・・!!)
というのがタツヤの感想だが、
(か、カッコイイ・・・)
というのがヒトミの第一印象である。それを知ってか知らずか、当の本人はにこにこと柔和な笑顔を絶やさない。
「いやあ、久しぶりだなぁ、お客さん。嬉しいなあ」
にこにこ。見る者の脱力を誘う笑顔で店の主人は言う。キリっとしてればかなりの美男子だろう、とタツヤでも分かるのだが、どうも本人の雰囲気がそれを否定する。
「サービスしちゃうよ?あ、お茶飲む?羊羹もあるんだ〜」
「あ、あの・・・」
「はい?」
放っておけばいつまでも喋りそうな主人の雰囲気にやや飲み込まれつつも、タツヤは張り紙を指差した。
「万年筆、あるって・・・」
「おや・・・そうかあ・・・うん、『在る』よ」
何故かここで、店の主人は更ににっこり笑った。
「呼ばれたんだねえ」
「?」
顔を見合わせる二人に構わず、主人は続ける。
「ウチはね、誰かの為だけに生まれてきたコを、ちゃんとその誰かにお嫁に、まあお婿もだけど、出してあげるのが仕事なんだ」
近くにあった筆を愛おしげに撫でながら、主人は二人に微笑いかけた。
「ちょっと待っててね、君たちの片割れを連れてきてあげるから」
言いながら再び店の奥へと向かう主人。
「あの!要るのはコイツのだけで・・・」
「良いから良いから〜」
既に姿を消してしまっている主人の声に、二人はまた顔を見合わせた。
(どうする?)
(どうしよう?)
同時にため息。暫くして、主人はその手に二本の万年筆を持って現れた。
「はい、こっちが君のでこっちが君の」
主人は二人の手にそれぞれ万年筆を渡し、恭しく一礼する。
「孤狐堂謹製万年筆で御座います」
「いや、だからオレには・・・」
「コギツネドウっていうんですね、このお店!」
必要ない、と言おうとしたタツヤを遮って、ヒトミが嬉しそうに言う。
「うん、可愛いでしょ?」
また嬉しそうに主人も応える。タツヤ、完全に置いてけぼり状態。
「でも・・・キツネさんが独りぼっちって、何か可哀想・・・」
「おや・・・」
主人は一瞬驚いたような顔をし、そして何とも言いがたい優しい表情(カオ)でヒトミを見つめた。
「優しいコだね、君は」
ポッ、と頬を染める彼女の様子に内心穏やかで無いタツヤ。とにかく、さっさと値段を訊いて帰ろう。時間だってあまり無いのだし。そう思ってタツヤはその手に握られた万年筆を返そうとした。
「今日は、コイツのだけで良いんだ。コレ、返すよ」
しかし主人は相変わらずにこにこ微笑ったままだ。
「そんなつれないこと言わないでよ。このコ、喜んでるし」
駄目だ、話にならない。眉間に皺を寄せるタツヤに気付いて、ヒトミが助け舟を出す。
「あ、あの、こちら、おいくらですか?」
主人はカラカラと笑った。
「あはは、お金なんか要らないよ。めでたい席だし」
タダ、と言われて面喰らう二人。
「え!?でも・・・」
「まあまあ、二人ともじっくりそのコ達を見てみてよ」
言われて、二人はその手の中の万年筆を見る。
ヒトミのは、ほっそりとした綺麗な形の、白木で出来たものだ。木製だがコーティングされていないため、手に優しく馴染み、握り心地が良い。見た目より丈夫そうなのも、握った感じで分かる。
タツヤのは頑丈そうで、やや太目の、こちらも木製だ。琥珀色で、コーティングもされていない。ペン先は太字用だろうか。驚くほどタツヤの手にしっくり馴染む。
「へえ・・・」
知らず知らず、感嘆の声が上がる。二人とも、それぞれの万年筆に魅了されつつあるのを見て、主人は満足げににっこり笑った。
「どう?なかなかでしょ?」
頷きながらも、ヒトミは心配を口にする。
「でも、これ、汚れちゃったりしませんか?インクとか、漏れちゃったら・・・」
コーティング無しの木製なのだ。インク漏れがあったら悲惨な事になるだろう。しかし主人は胸を張って応えた。
「ふっふっふ、当店自慢の万年筆だよ?インク漏れなんてしないから大丈夫っ!・・・あ、でも汚れがついちゃったら、目の細かい紙やすりで磨いてあげてね」
「そ、そうですか・・・あ、インクはどういう方式ですか?カートリッジとか・・・」
「ん〜?その点も大丈夫!インク切れも起こさないから」
万年筆を使った事の無いタツヤにはピンとこない会話だ。タツヤは「万年筆っていうくらいだから、とにかくず〜〜〜〜っと書けるんだろ」と思っている。インクを注入せねばならないことなど知らない。しかしヒトミは経験者だ。主人の応えに戸惑いを隠せない。
「あの・・・でも、それって・・・」
「ふふ。だって”万年”筆だもん」
にこにこ。・・・ヒトミは何だか騙されているような気になったが、それでもいいか、と思えてきた。主人の笑顔には人をそういう気分にさせる効果があるようだ。
「君は?そのコ、どうだい?」
主人はさっきから万年筆を握ったり眺めたりしているタツヤに声をかけた。タツヤはかなりこの万年筆が欲しいと思い始めていたが、しかしどうも胡散臭い。
「・・・カッコイイけどさ、でも、高いんだろ?」
「やだなぁ、お金は要らないってば」
「何で?」
「だから、おめでたいからだってば」
益々もって胡散臭い。素人からみてもかなり立派な万年筆だ。タダなハズがない。もしかして怪しいものなのだろうか?いわくつきとか?
様々に思いを巡らせるタツヤに、主人は微笑いながら言う。
「ねえねえ、このコ、かな〜り格好良いでしょ?」
「うん」
それは認める。こんなのを持ってる自分、というのを想像するとかなり良い感じだ。それだけで自分が偉くなったような気さえする。
そんな子供らしいタツヤの心情を知ってか知らずか、主人が決定打を放った。
「男を上げるなら、コレだよ?」
結局。暫く後には、小さな木箱に収められた万年筆が二人の手に握られていた。
「じゃあ、大切にしてあげてね。君たちとそのコたちとの絆が永遠でありますように」
主人は店の入り口まで出、そう言って二人と二本を見送った。二人はぺこりと一礼して、店に背を向ける。
「何か、ウソみたいな話だよな」
「うん・・・でも、素敵なお店だったね」
会話しつつ、自然に二人とも木箱に手が伸びる。それぞれの万年筆と同じ材質で出来た木箱だ。そっと蓋を開けると、万年筆が静かに横たわっている。ふと、二人は箱の蓋の内側に文字が刻印されているのに気付いた。何気なく目を遣る。
「「あ!!」」
その瞬間、二人は同時に声を上げた。
『贈呈 フルカワ タツヤ様 孤狐堂』
『贈呈 フタバ ヒトミ様 孤狐堂』
「な、何で・・・!?」
店内で、二人はお互いの名を口にしなかったハズだ。たとえ言ったとしても、互いに苗字で呼び合う事は無い。服や持ち物にも記名しているものはない。二人はぞっとするものを感じながら店の方を振り返った。
「・・・!!」
絶句。確かに今そこに在ったハズの古めかしい文房具店は、影も形も無かった。在るのはただ、シャッターの降りた無言の街。
「―――行こう!!」
背筋に悪寒が走るが、ヒトミの前でビビってはいられない。タツヤは真っ青になっているヒトミの手を掴むと、バス停まで引っ張って走った。決して振り返らずに。
更に不思議な事に、二人が帰りのバスに飛び込んだ時、時刻は8時前・・・街に着いた時から2,3分も経っていなかった。
「・・・」
「・・・」
暫く無言が続く。やがて、タツヤがぽつりと言った。
「ホントに・・・キツネに化かされたみたいだ・・・」
二人の脳裏には、あの目の細い店主の愛想のいい笑顔がちらついていた。
それから数日が過ぎた。あの店の事は、誰にも話す気になれなかった。どうせ信じてもらえないだろう。しかし二人は、少し怖いと思いつつも万年筆を使わずには居られなかった。本当に、手に馴染む。それどころか、一体になったような気さえするのだ。クラスの連中は初め、一風変わった万年筆を同時に使いだした二人をからかったが、それもしばらくして終わった。
やはり不思議な経緯で手に入れたものだけに、不思議な事がしばしば起きた。家に置いてきたハズなのに、何時の間にかポケットに入っていた事は幾度となくある。教室移動ですらそうだ。これもまた不思議なのだが、タツヤとヒトミは、それを気味悪くは思わなくなっていた。それどころか「可愛い・・・」とまで思っている。二人と二本は、いつも一緒に居た。
主人の言うコトは正しく、インク漏れもインク切れも起きない。滑らかな書き心地で、書き疲れも無い。二人はすっかり魅了されていたし、万年筆もよく二人に”懐いて”いた。
『ウチはね、誰かの為だけに生まれてきたコを、ちゃんとその誰かにお嫁に、まあお婿もだけど、出してあげるのが仕事なんだ』
今の二人は、主人の言葉がすっかり理解できていた。
それからまた月日は流れ、二人は3年生の冬を迎えていた。ヒトミは後輩の図書委員に仕事を教え終わり、ゆっくりと日々を送っている。しかしタツヤはそのずば抜けた運動神経故に、3年ではあるがありとあらゆる運動部の助っ人、若しくはコーチに駆り出される忙しい日々を送っていた。
そんなある日の夜。その日、タツヤはサッカー部の練習の所為で疲れきっていた。スポーツではサッカーが一番好きだったので、ついつい張り切り過ぎてしまうのである。まだ早いがもう寝ようと思い、ブラインドを下ろすため窓に近づいた。
「タツヤくん!」
窓辺に立つと、目と鼻の先にヒトミが居た。何か思いつめた様な顔をしている。
「よお・・・どうした?」
切羽詰った空気を感じ取り、タツヤは窓を開け、ヒトミに向き合った。彼女は窓から身を乗り出さんばかりだ。
「あ、あのね、タツヤくん・・・」
そこで俯いてしまう。中々次の言葉を言い出せない彼女を、タツヤはじっと黙って待っていた。
「・・・あ、あの、もうすぐだね、卒業・・・」
「ん。そうだな」
そしてまたしばしの沈黙。破ったのは、ヒトミの方だった。
「・・・高校生になっても、仲良くしてね?」
「な、何言ってんだよ」
赤面するタツヤだが、ヒトミの真剣な目に気付いてぼそりと言う。
「・・・当然だろ」
ヒトミはどこかしら哀しげに微笑った。
「ありがと」
その微笑が心に引っ掛かる。タツヤは「おやすみ」と言って顔を引っ込めようとするヒトミを思わず呼び止めた。
「おい!」
「?」
「あ・・・何でもない・・・」
「?そう?・・・じゃあ、おやすみ」
「ああ・・・」
ヒトミの部屋の窓が閉まり、カーテンが引かれる。タツヤは自分が疲れていた事も忘れて、暫くそこから動かなかった。
次の日の朝、ヒトミは普段と変わった所はなかった。いつも通りのはにかんだ笑顔で「おはよう、タツヤくん」、いつも通りに一緒に登校。しかしタツヤは、昨日の夜のコトが気になっていた。どうして、哀しげだったのだろう。何か心配事や隠し事があるのだろうか。だが、訊こうとしてもあまりに彼女がいつも通りなので躊躇ってしまう。
(・・・気のせいだ。俺の勘繰りすぎだ)
結局、そう思い込むことにした。実際に「何か」あったら、と思うのは怖いのである。
しかし、彼のヒトミに関する勘が滅多に外れないのは、彼自身分かっていた。
卒業も間近に迫った、ある日の晩。タツヤは家族と食卓を囲んでいた。いつも寡黙な父と、いつも陽気な母、その母に相槌を打つのが日課のタツヤ。毎日の何気ない会話(母が一方的に喋るだけだが)の中で、卒業の事が話題に上った。
「もう卒業なのねえ。そうそう、タツヤ、制服の採寸は何時なの?」
「まだ分からん」
「そう?それにしてももうあんたが高校生だとはねえ。大丈夫なのかしら」
「・・・」
「いままではヒトミちゃんが居てくれたから安心だったけど・・・」
「どういう意味?」
訝しげに眉をひそめる息子の顔を見て、母は狼狽した。
「どういうって・・・あんた、ヒトミちゃんから聞いてないの?」
「だから、何を」
嫌な予感がじりじりと胸の奥でくすぶり始める。
「・・・あらあら・・・どうしましょ・・・」
「母さん!何なんだよ、一体!?」
語気を強める息子に、母は視線を落としつつ応えた。
「・・・今月の終わりにね、フタバさんご一家、東京に引っ越すの。旦那さんのお仕事の関係で・・・」
一瞬、頭が真っ白になった。しん、と心の奥が冷え切ったような感覚を覚える。
「・・・ウソだ・・・」
「・・・」
「嘘だろ?母さん。だってほら、アイツ、オレと一緒に入試受けに行ったぜ?一言だってそんな事・・・」
「タツヤ、本当なのよ。急に決まったそうなの」
タツヤの中で何かが崩れ落ちた。体中の力が抜けていく。
「・・・」
のそり、とタツヤは立ち上がり、食事も終わらせぬまま席を離れた。そのまま二階の自分の部屋へと向かう。
「タツヤ・・・」
母が何か言おうとしたが、父が視線でそれを遮った。二人は、静まり返った食卓で夕食を続けた。